認知症の人の声を聴いていますか

「関係の質」が感情を安定させる

栄樹庵診療所院長・東京慈恵会医科大学名誉教授 繁田雅弘

 精神科医の私が最も強い関心を持つのは、本人が自分自身の状態をどのように認識し、どのような感情を抱いているかという点である。一般にアルツハイマー型認知症の経過においては、認知機能の低下ゆえに本人が自己の変化を認識できなくなると見なされがちである。しかし実際には、多くの人が「何かが起きている」という言いようのない違和感を、極めて初期の段階から抱いている。

 記憶障害や見当識障害が顕在化するなかで、それまで行えていたはずの日常動作に支障を来すようになれば、本人は深刻な混乱と不安の渦に巻き込まれる。昨日までの自分と今日の自分が地続きであるという「自己の連続性」が足元から崩れ、失われていくことへの、根源的かつ実存的な恐れである。

 自らの誤りを指摘された際に、彼ら彼女らが示す羞恥心は驚くほど強く深いものである。長年にわたって社会的役割を担い、自律した一人の人間として生きてきたプライドが、自己評価の低下という残酷な現実に直面したときの当然の反応と言える。自らの能力が失われていくことを認識する人ほど、現在の自分を否定的に捉え、「役に立たない存在になっていく」という感覚に絶望している。

 言葉が思い出せない、あるいは状況が正確に把握できないといった認知的困難に直面した際に表出される苛(いら)立ちや怒りは、自己防衛の機序として理解できる。それは「かつての自分」という確固たるイメージが崩壊していく脅威に対し、必死に抗おうとする態度でもある。この内面的な努力は、たとえ病状が中期に差し掛かったとしても、自らのアイデンティティの欠片(かけら)をつなぎ止め、自分らしさを保とうとする行動として途絶えることはない。彼らは崩壊しゆく世界の中で、最後まで自分であり続けようと闘っている。

 最も身近な存在である家族に対しては、深い「感謝」と、それを上回るほどの「申し訳なさ」が交錯している。多くの認知症の人々は、家族が自分のために多大な負担を抱えている事実を、理屈として理解しているだけでなく、直感的、あるいは感情的にも痛いほど理解している。

 そして家族の重荷になっているという苦悩は、元々の自己否定感をさらに増幅させる。そして、自らの不全感を自覚しているがゆえに、本人は家族の言動に対して過敏になってしまう。家族による無神経な接し方や、一人の人間としての尊厳を欠いた態度は、本人の心を著しく傷つける。家族からの信頼が失われた、あるいは疎まれていると感じたとき、本人の不安は最大化し、それがBPSD(認知症に伴う行動・心理症状)という形をとる。

 しかし、家族とのつながりは、たとえ記憶が断片化した後も、身体的な感覚や感情記憶として深層に保持され続ける。配偶者や子供は、「かつての健やかな自分を知る」存在であり、自己の連続性を証明してくれる拠り所である。認知機能が低下しても、家族が傍らにいるという事実や非言語的なコミュニケーションから得られる安心感は、どのような薬剤も及び得ない代替不可能な治療的意義を持つと言える。

 本人の尊厳は、他者、特に家族との関係性の中で絶えず付与され、更新されるものである。家族が本人の変化をどのように受け止め、いかにして一人の人間として接し続けるかという「関係の質」こそが、本人の感情の安定を決定づける。敬意を払われ、ありのままを受容される環境においてのみ、本人は穏やかな親密さを維持することができる。

 アルツハイマー型認知症を生きる人々は、自己の崩壊という恐怖と他者とのつながりへの渇望の間で揺れ動く、極めて複雑で繊細な心理的過程を歩んでいる。臨床医としての私の役割は、彼らの内面にある言葉にならない苦悩を的確に推察し、その尊厳を支えるための人間的な関係を再構築することにある。