レビー小体型認知症の苦悩
栄樹庵診療所院長・東京慈恵会医科大学名誉教授 繁田雅弘
最近は、意識が途切れたり、現実が足元から揺らいだりする感覚が続いている。昨日まで確かに見えていたはずの光景が、今日には信じられないものへと変わってしまう。部屋の隅にいる小さな動物や知らない人の姿は、目にははっきりと映っている。しかし、頭のどこかでは「そこにいるはずがない」と否定しようとする自分もいる。この「見えているのに、実際にはいない」という食い違いによって、自分の感覚が信じられなくなっていく。自分を信じられないという不安は、生活のあらゆる場面で影を落とす。
注意力の状態は、もはや自分の意志で制御できるものではない。思考がはっきりしている時と、霧がかかったようにぼんやりする時が交互にやってくる。この変化が激しいために、かえって「自分がおかしなことになっている」と思い知らされ、どこにも逃げ場のない不安を感じることになる。自分が見ている世界を誰とも共有できない事実は、言葉にできない深い孤独感を生んでいる。周囲に説明しようとしても、うまく伝わらないもどかしさが、さらに自分を閉じ込めてしまう。
体もまた、自分の思い通りには動かなくなっている。足がすくんで次の一歩が出なかったり、急に意識が遠のいたりする。これらは単なる体の不調ではなく、生きていくことそのものへの怖さとして感じられる。日常の何気ない動作の一つ一つに自信が持てなくなり、かつては当たり前だった場所が、いつの間にか危険に満ちた場所に変わってしまった。外出することや、家の中を歩くことさえ、慎重にならざるを得ない。
幻覚が見えるようになると、自分の感覚を疑うことが習慣になってしまう。ありもしない人やその動きにさえ何らかの理由を見つけようとすることは、壊れていく現実を何とかつなぎ留めようとする必死の試みといえる。頭の中がひどく混乱していても、自分という人間を失わないように、心の中では懸命な踏ん張りが続いている。それは、周りからは見えない孤独な闘いだ。
家族という存在は、不安定な現実の中での唯一の支えだが、同時に自分の変化を容赦なく突きつける存在でもある。幻が見えた時に本当に求めているのは、間違いを正されることではなく、自分が見ている世界をそのまま受け止めてもらうことだ。「そんなものはいない」という正しい理屈は、事実としては正しくても、自分の存在そのものを否定されたような痛みになる。
自分の言葉を否定される経験が重なるたびに、家族との間に目に見えない壁ができ、相手を疑う気持ちが強まっていく。生活のすべてを家族に頼らざるを得ない現状には、感謝とともに、強い情けなさや悔しさが混ざっている。一人の大人として扱われたいという自尊心と、何もできない無力感がぶつかり、それが家族への理不尽な反発となって表に出てしまうこともある。迷惑をかけているという申し訳なさは、意識の底に澱(おり)のように沈んでいて、消えることはない。
さらに、病気の症状によって、最も信頼しているはずの家族が敵に見える瞬間がある。視覚情報を正しく処理できないせいで、家族のちょっとした表情や態度を、自分を攻撃していると誤解し、根拠のない疑いや被害感をもってしまう。後になって意識がはっきりした時に訪れる「なぜあんなひどいことを思ったのか」という悔しさも自分を傷つける。
元気で役割を果たしていた頃の自分を知っている人に、衰えていく今の姿を見せるのは、耐えがたい。頼りたいという本能的な欲求と、変わり果てた自分を見られたくないという拒絶感の間で、家族に対する想(おも)いは常に揺れ動いている。どれほど混乱が深まっても、家族には自分を一人の人間として、見つめてほしいと願う気持ちがある。
レビー小体型認知症の人の訴えから苦悩を推測すると、このようなことではないか。