認知症の人の声を聴いていますか

第32回 「速い思考」と「遅い思考」

栄樹庵診療所院長・東京慈恵会医科大学名誉教授 繁田雅弘

 心理学者のカーネマン(2011)は、人間の思考には大きく分けて二つのやり方があると述べた。一つは「速い思考」であり、ほとんど無意識のうちに、パッと直感で答えが出てくる考え方である。もう一つは「遅い思考」であり、「どうしようかな」とじっくり考えて、論理的に答えを出す考え方である。この二つは対立するものではなく、私たちは状況に応じて自然に使い分けているという。どちらが「賢い」わけでもなく、そのときの状況に合った方を使えることこそが大切であると他の研究者も指摘している。

 「速い思考」が活躍するのは、友人と雑談しているとき、あまり考えてもいないのに、次々と言葉が出てくる場面や、危険を瞬時に察知する場面である。この思考は感情と深く結びついており、長年の経験から生まれた「勘」や「直感」がその正体であるという。一方「遅い思考」が活躍するのは、数学の問題を解くときや、大事な決断をするときなど、じっくり考える必要がある場面であるとカーネマン(2011)は説明する。たとえば医師が患者を診るときも、この二つの思考を組み合わせて使っており、どちらか一方だけに頼ると判断を誤りやすくなると指摘する研究者もいる。

 この「二つの思考」は、精神療法における対話にも、そのままあてはまると考えられる。「速い思考」モードの対話では、言葉がポンポンと自然に出てきて、お互いの感情や気持ちを、言葉の細かい意味よりも「雰囲気」や「温度感」として共有していく。治療者は意識的に考えているわけではなく、言葉が自然と口をついて出る。そこで共有されるのは辞書的に書いてあるような意味ではなく、その場の空気や感情の流れそのものである。会話を文字に置き換えると、必ずしも的確な語の選択でないこともある。しかしこうした対話がうまくいくと、患者は診察の後に家族から「先生とどんな話をしたの?」と聞かれても「うまく説明できない」と答える一方で、「また先生に会いたい」「話は楽しかった」という感覚は残っている。酔ったサラリーマンの居酒屋の体験に似ている。内容でなく雰囲気らしい。

 一方「遅い思考」モードの対話では、一言一言の意味を大切にしながら、「この言葉をどう使っているか」を確認しながら話を進める。このとき治療者の頭には、患者の発言を受けて複数の答えが浮かんでいるので、どれを選ぶかによって対話の流れが変わる。だからこそ治療者は沈黙することもある。しかし、これは「何も考えていない」のではなく、深く考えているがゆえの沈黙なのである。治療者の沈黙は、患者に「あなたの話をきちんと受け止めている」というメッセージを言葉を使わずに伝えているわけである。

 どちらの対話モードになるかは、患者の話し方や反応のスタイルによって自然に決まっていくという。大切なのは「患者のスタイルに治療者が合わせていく」という姿勢であり、治療者が自分のペースを一方的に押し付けることは避けなければならない。「対話がうまくいくかどうかは最初の二言三言で方向が決まる」という臨床感覚は、この研究と誠に一致している。

 「自分が共感しているつもり」でも、患者のモードと合ってなければ、患者は「共感してもらった」とは感じない。「速い思考」モードの対話では言葉を超えた感情の共鳴が生まれ、「遅い思考」モードの対話では一言一言を丁寧に選ぶことで深い意味の共有が生まれる。目の前の人が今どちらを必要としているかをその時その時に感じ取り、自分をそこに合わせていくことーーそれが、対話における重要な技術だと考えている。二人で流れに乗ることができれば、信頼関係を築くことにもつながる。