主な事業/国内の福祉事業

見たい!70年前の映画「朋友」/養育事業で来日した中国婦人

お手玉や絵本を読む中国の女児たち。左端で絵本を開いているのが高玉萍さん<br />
=四天王寺悲田院で1940年2月撮影

お手玉や絵本を読む中国の女児たち。左端で絵本を開いているのが高玉萍さん
=四天王寺悲田院で1940年2月撮影

 70年前の1939年、毎日新聞大阪社会事業団▽四天王寺▽大阪隣保事業協会が、日中戦争で親を亡くしたり不明になった中国の子ども68人を大阪に呼び養育を開始しました。戦火が厳しくなったため養育期間を短縮、45年5月までに順次中国へ帰しました。その1人で80歳を過ぎた元小児科医の高玉萍さん=当時の名前は「高濟蓉」、中国・大連市在住=から、「常に思い出す70年前を、子や孫に伝えたい。自分たちが撮られた映画『朋友』が残っていれば、是非見たいです」との便りが今春、毎日新聞大阪社会事業団へ届きました。「海を越え、命の尊さを子どもに託した」養育事業。大阪が自分の出発点という高さんの思いが、手紙に詰まっています。

「子どもらに罪はない」 西村真琴・本団常務理事が提唱

四天王寺悲田院で食事をする中国の子どもたち=1939年11月撮影

四天王寺悲田院で食事をする中国の子どもたち=1939年11月撮影

 中国の児童招へいは、大阪社会事業団常務理事で日本初のロボット製作者としても知られる西村真琴博士らの提唱。「子どもに罪はない」と、隣邦児童愛護会を結成。大阪社会事業団事務所に本部、生活保護施設の四天王寺悲田院(大阪府羽曳野市)に、受け入れ施設「隣邦児童愛育所」を構えました。

 39年1月に愛護会が訪中、2月には早くも7歳から15歳までの男児60人と女児8人を大阪に呼び寄せました。保母と男性の通訳兼教師に付き添われた一行は、毎日新聞大阪本社での歓迎会を済ませ、悲田院に落ち着きました。

四天王寺悲田院で生活 地元の4小学校に通学

朝の礼拝をする中国の児童たち=四天王寺悲田院で1939年11月撮影

朝の礼拝をする中国の児童たち
=四天王寺悲田院で1939年11月撮影

 子どもたちは、地元の藤井寺▽沢田▽古市▽埴生の4小学校に分かれて学び、愛育所内でも中国から引率の教師、日本の教師が生活指導や学校の補習をしました。元大阪外国語大学長の金子二郎さんに顧問を依頼、実際に指導に加わってもらいました。 励ましの視察も相次ぎ、堂本印象画伯も訪れたとの記録もあります。

 子どもたちも、異郷の生活に次第に順応、旧制高校に進学するなど成績優秀者も多かったといいます。文化映画やラジオ放送にも出演しています。

 41年になって、中国で不明だった親が判明するケースや、大阪での教育に一応の区切りがついた子どもが出てきたため、現地と連絡、就職のメドがついた半数近い30人が帰国しました。勤め先は、日本語ができることから通訳の仕事が多かったといいます。子どもたちには、愛護会が制作した報告書「伸びゆく大陸の孤児」(80ページ)を持たせました。

 その後、戦況が悪化。中国での務め先が決まった者から順に、帰ることになり、45年5月の20人を最後に、養育愛育事業は6年間の幕を閉じました。

 日本敗戦と混乱で、帰国した子ども達のその後は把握できなくなりました。79年に、中学教師をしているという男性から、恩師の金子さんに近況を伝える便りが届き関係者を喜ばせました。

是非見たい!映画「朋友」 70年前の児童が映る

「映画『朋友』を見たい」と、70年前を懐かしむ高玉萍さん

「映画『朋友』を見たい」と、
70年前を懐かしむ高玉萍さん

 高さんの便りは、夫の勤めで日中間を行き来する佐々木景子さん(66)=宮城県大崎市=の仲介で届きました。佐々木さんの娘さんが通う大連のバレエ教室経営者が、高さんの娘さんでした。

 高さんは、44年に看護師の資格を取って帰国し、小児科医となって活躍。医療の現役を引退していますが、「少女時代の70年前」に思いをはせています。「当時の自分たちをモデルに撮られた『朋友』という題名の映画があるはずです。是非とも自分の子や孫の世代にそれを見せたいのです」と、会う度に佐々木さんは聞かされていました。

 折り返し、当時来日した児童リストなど、大阪社会事業団に残る資料を高さんに郵送しましたが、映画「朋友」の手がかりはつかめていない。

 高さんが言う映画「朋友」の存在や、来日児童に関係する情報を、
毎日新聞大阪社会事業団
(〒530-8251 大阪市北区梅田3の4の5、 電話06-6346-1180、
ファクス06-6346-8681)へお寄せ下さい。