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歩み(これまでの活動)

79年~88年 戦争と飢餓、難民の中へ

第9回ジンバブエ
      栄養失調で餓死したシモン・ランバニ君(推定年齢4~5歳の少年)。短い生涯で初めて安らぎを得たかのよう
      =トンゴガラキャンプで84年、川辺章生撮影

第9回ジンバブエ
栄養失調で餓死したシモン・ランバニ君(推定年齢4~5歳の少年)。短い生涯で初めて安らぎを得たかのよう
=トンゴガラキャンプで84年、川辺章生撮影

 最初の10年間は、ベトナム戦争などによるインドシナ難民と、アフリカの飢餓難民が主な取材対象となった。

 インドシナ半島には6取材班が派遣された。第3回(80年度(2))の連載の書き出しは衝撃的だ。

「『アー、アッ』『アー、アッ』――廊下にもれてくる奇妙な声にひかれて、病室に足を踏み入れた。(中略)やせこけた赤ん坊が、板を張っただけのベッドの上で母親に抱かれていた。鉛筆を5、6本束ねたくらいしかない細い腕。黒いひとみが異様に大きく見えるが、奇声に聞こえたのは、体力がないため声にならない泣き声だった」

 キャンプでは食料、薬品が足りず、マラリアの被害も深刻だった。さらに、入所制限を設けたキャンプからの追放におびえる「もぐり避難民」たちや、香港の難民キャンプにも足を運び、安住の地を探してさまよう人々の不安を伝えた。

 アフリカには9取材班が入った。中でも第10回(85年度)のスーダン中部、第12回(86年度)のアンゴラの各キャンプは、日本人記者として初の現地入りを果たした。

 紙面では、栄養失調で死線をさまよう子どもたちの様子が生々しく報告された。第9回(84年度(2))の連載には、ジンバブエのキャンプで安らかに眠る少年の写真が掲載された。

 「女児(5)の右手がベッドで眠っている少年を揺り起こそうとした瞬間、ピクンとふるえて静止した。真っ黒いひとみに、みるみる大粒の涙があふれた」。看護師は女児をこうあやした。「おお、また仲良しが死んじゃったな。この1週間で7人目、泣くんじゃないよ」

 第11回(85年度(2))は、干ばつで難民となったブルキナファソの遊牧民の若い母と乳児を取材した。記事では「母乳は一滴も出てこない。泣く力すらなく『ウーウー』と、ひもじさにうめくのがやっと。『もう2週間、水以外何も口にしていません』」とし、「(この乳児が)次に援助がくる2カ月足らずを生きのびれる可能性はほとんどない」と非情ともいえる一文を添えた。アフリカとは、目の前でバタバタと命が消えていく現場だった。

 また、キャンペーン10年目の88年度には15~18回、計4取材班を派遣。パレスチナ自治区からはイスラエルの占領に正面から反対運動を展開する若い世代の様子を伝え、ソ連(当時)軍撤退直前のアフガニスタンには変装をして入国、紛争下のゲリラ組織に密着した。

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