母の日・父の日募金キャンペーン

 ご寄付は、必ず「母の日・父の日募金」と明記し、郵便振替か現金書留でお寄せください。紙面掲載で「匿名希望」の方はその旨を記し、可能ならメッセージを添えてください。 受け付けは8月末日まで。

◇寄付金の送り先
郵便振替00120・0・76498
〒100―8051(住所不要)毎日新聞東京社会事業団

就職して母を安心させたい

加藤良太さん

 2025年は5月11日が母の日、6月15日が父の日。毎日新聞は、困難な状況で生きる子どもを支援する「母の日・父の日募金キャンペーン」を実施しています。集まった寄付金は例年、病気や事故で親を失うなどした子どもを支援する「あしなが育英会」などに届けています。東京都在住の帝京平成大3年、加藤良太さん(20)は7歳の時に父誠吾さん(当時41歳)を亡くしたが、母雅子さん(58)に支えられて大学に進学しました。観光経営学を学び、古里の千葉県成田市で航空関係の職業に就く夢を膨らませている。

 ●「努力する姿」見習う

 「両親は本当に仲が良くて、父はかっこいい存在でした」。生前の父はキャッチボールの相手をしてくれ、休日には買い物に連れて行ってくれた。小学校の入学式にも、母と一緒に出席してくれた。

 だが、そのころには大腸がんに侵されていたようだった。「父の部屋には病院と同じようなベッドが置かれ、病状が軽くないことには気付いていました。それでも治ると信じていたのですが……」。通院が入院に変わり、ある日、父は帰らぬ人となった。

 主婦だった母はその後、働きに出るようになった。朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる日々。帰宅後はぐったりとしているように見えた。それでも、母は努力を欠かさなかった。仕事の合間を縫って手話を習い、念願だった障害児福祉の仕事に転職した。そんな母の背中を見て、加藤さんは幼心に「見習わなければ」との思いが募った。

 挑戦を続ける母の存在は、加藤さんが進学する原動力にもなった。家計のことを考えると、高校卒業後に就職する選択肢もあった。だが、母は「人生を豊かにするため、目先の収入を選ぶのではなく、本当にやりたいことや、自分を生かせる道を探しなさい」と語り、奨学金を受けて進学することを勧めてくれた。

 そこで、加藤さんが出した答えは「東京の大学で観光経営を学び、古里の成田で就職する」ことだった。

 加藤さんは幼少期に駅の発車メロディーに興味を持ったことをきっかけに、鉄道だけでなく乗り物全般が好きになった。今は、父と同じ成田空港で働くことが目標だ。「母の応援と奨学金がなければ、こんなふうに将来の夢は描けなかったと思います」

 進学を機に上京した加藤さんは、「あしなが育英会」の奨学金を受けている。学業の傍ら、奨学生が運営する「あしなが学生募金事務局」の地域代表を務め、街頭募金を呼び掛けたり、貧困問題の啓発活動に携わったりしている。v

 実はこれも、母に背中を押されて手を挙げた活動だ。「あなたにはリーダーシップがある。向いているよ」。新入生だったため、興味はありつつも二の足を踏む加藤さんに、母はそう言ってくれた。

 ●今はしっかり勉強

 「行政や企業の方々にお願いに行く活動などを通じて社会と関わりを持つ機会が増えただけでなく、仲間をまとめたり動かしたりする力も養われました」と加藤さん。その表情からは、充実感が伝わってくる。「全国にいる仲間から信頼を得て、活動の輪が広がっていくことがとてもうれしいんです」

 今年も母の日が巡ってくる。加藤さんに母への思いを尋ねると、こんな答えが返ってきた。「子育てのためにやりたいことを我慢したり、つらい思いをしたりしたことはたくさんあると思います。まずは就職して安心させてあげたいし、将来は旅行やグルメにも連れて行ってあげたい。今はしっかり勉強している姿を見せて、一つ一つ恩を返していきたいと思っています」【山崎明子、写真も】

(2025.5.3 毎日新聞)

お金を追わず自分を磨け

浜畑美帆さん
浜畑美帆さん

 6月15日は父の日。東京外国語大4年、浜畑美帆さん(22)は、2年前に父速見さん(当時72歳)を亡くした。父との思い出や支えになった奨学金への思いなどを聞いた。

 ●大切な父の言葉

 「パパっ子だったんです、私。本の読み聞かせをしてくれて、寝るのも一緒でした」。幼少期のことを振り返る浜畑さんの手元には、父からもらったコンパクトデジタルカメラが今も残る。父と娘をつなぐ思い出の品だ。

 元々商社に勤めていた父は、自分で事業を手掛けたいと、中華食材の加工・販売の会社を起こした。さらに、事業拡大のため、浜畑さんが4歳のころに一家で中国に転居した。両親はともに忙しく、娘の預け先となったのがピアノ教室だった。浜畑さんは10歳ごろまで、ピアニストを夢見てレッスンに励んだ。

 そのころ、父の体に異変が起きていた。後に筋萎縮性側索硬化症(ALS)と分かるが、当時は病名も治療法も見当がつかなかった。「最初は手にしびれが出て、ひげそりがうまくできなくなりました。箸も使えなくなり、スプーンを使うようになりました。大きな一眼レフカメラを愛用していたのですが、シャッターも切れなくなりました」

 そう語る浜畑さんは、「でも」と続けた。「私がシャッターを切ってあげるようになり、それがきっかけでカメラの持ち方やピントの合わせ方、絞りの調整などを教わるようになったのです」。それから、父の一眼レフで花や鳥などを被写体に撮影の練習を重ねた。父がくれたコンパクトデジタルカメラでも、家族の記念写真を数多く撮影した。

 浜畑さんが中学に進むタイミングの2016年3月、一家は日本に帰国した。その後、父は大学病院でALSと診断された。事業をやめ、収入の道は断たれた。生活面では食事も入浴も、すべて介助が必要になり、それを母が担った。「母は自分の食事は後回しでした。だから、父の闘病中に家族そろってご飯を食べることはありませんでした」

 体の自由を奪われても、父は「娘が20歳になるまでは」と意欲を燃やし続けた。その言葉通り、20歳の誕生日を見届けて息を引き取った。浜畑さんは泣き笑いの表情を見せる。「鹿児島出身の、意志の強い男だったんです」

 実業家だった父は生前、大人になって役立つ実用的なことを教えてくれた。その中で大切にしている言葉がある。「お金を追いかけると、自分を見失ってしまう。自分を磨いて能力を高めると、お金のほうが寄ってくる。お金が寄ってくるような人間になりなさい」

 ●カメラメーカー内定

 浜畑さんはあしなが育英会などの奨学金を受け、大学に通っている。在学中に得意の中国語をさらに磨き、就職活動ではそれを生かせる企業から内定を得た。カメラメーカーだった。偶然ではあるが、深い縁を感じた。「父のアドバイスのお陰だと思います」

 就職後はしばらく奨学金の返済が続く。だが「借りなければ大学に行けなかったし、この経験はプライスレスです」。卒業まで1年を切った。残る期間も、自分を磨く挑戦を続けるつもりだ。「父は心の中で生きています。これからも見守ってほしいと思っています」【山崎明子、写真も】

(2025.5.31 毎日新聞)