海外難民救援

海外難民救援金2024年度 1210万円を18団体に贈呈

 2024年度の海外難民救援金1210万円を世界各地で支援活動をしている国連救援機関や非政府組織(NGO)など18団体に贈呈しました。毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民救援キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は17億3198万8344円になりました。このうち、東京社会事業団からは、870万円を13団体(※印)に贈呈しました。

 贈呈先は以下の通りです。(順不同)

 国連UNHCR協会※
 国連世界食糧計画WFP協会※
 日本ユニセフ協会※
 国境なき医師団日本※
 日本国際ボランティアセンター(JVC)※
 難民を助ける会(AAR Japan)※
 シェア=国際保健協力市民の会※
 AMDA※
 シャンティ国際ボランティア会※
 ワールド・ビジョン・ジャパン※
 難民支援協会※
 緑のサヘル※
 バーンロムサイジャパン※
 ゴーシェア
 Piece of Syria
 テラ・ルネッサンス
 ペシャワール会
 ロシナンテス

(2025年4月)

海外難民救援キャンペーン2024年度

ウガンダ中西部のキリヤンドンゴ難民居住区で暮らすスーダン難民のネイマットさんと幼い3人の子どもたち。避難先のテントを何者かに切り裂かれ、骨組みだけが残る跡地で先行きの不安を訴えた=ウガンダで2024年10月26日、滝川大貴撮影
戦争、迫害、災害、貧困などを理由に故郷を追われる人々は世界中で絶えない。毎日新聞社と毎日新聞社会事業団による「海外難民救援キャンペーン」は、アフリカ最大の難民受け入れ国でありながら、ウクライナや中東の紛争のはざまで光の当たらないウガンダから、難民のいまを報告します。

流民に光を・ウガンダから 172万人、裂かれた夢

 赤茶けた大地が見渡す限り広がり、居住用の小さなテントが点在する。アフリカ東部の内陸国・ウガンダには、紛争などで周辺の国々を追われた人たちが大量に流入している。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、10月末時点で172万人。アフリカ最大、世界有数の難民受け入れ国として知られる。

 10月下旬、ウガンダ中西部のキリヤンドンゴ難民居住区で、スーダンから逃れてきたネイマットさん(31)が沈痛な表情を浮かべた。「あの出来事を思い出すだけでひどく胸が痛む」

 ウガンダの北にあるスーダンでは2023年4月、政府軍と、政府系の準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」による内戦が勃発。一般国民を巻き込み、UNHCRによると、人口約4600万人中、約1100万人が家を追われた。紛争地のデータ収集を行う米NPO「ACLED」は2万7000人以上が犠牲になったとしている。しかし、ウクライナや中東での戦争に埋もれ、「忘れられた紛争」と呼ばれる。

 ネイマットさんは内戦の混乱下で夫(41)を殺害された。幼い子どもたちを連れウガンダに逃れたが、一息ついたのもつかの間、住まいのテントが何者かに切り裂かれた。「スーダンで起きている真実を知ってほしい」。彼女は凄惨(せいさん)な体験を語り始めた。

◇絶望の淵で「食料品店営みたい」

 平穏な日常は突然の襲撃で断ち切られた。アフリカ北東部スーダンでは2023年4月に始まった軍事衝突が国民に悲劇をもたらしている。

 「親戚と連絡さえ取れず、誰も頼ることができない」。祖国スーダンを逃れ、ウガンダに身を寄せるネイマットさん(31)は嘆く。

 10年ごろ、幼なじみでいとこのアダムさんと結婚。優しく、信心深い性格を愛し、けんかをしたこともなかった。2男2女に恵まれ、夫が営む食料品の小売店は経営が上向き、首都ハルツーム近郊で充実した日々を送っていた。

 スーダンでは23年4月15日、政府系の準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」が反乱を起こした。要員や装備を強化して政府軍に準じる役割を任されていたが、近年、政府軍への編入を巡って権力争いが激化していた。

 戦闘開始から間もなく、夕食後に突然外から男性の怒声と大勢の足音が聞こえてきた。銃を携えた覆面姿の男たち約20人が敷地の塀を乗り越え押し入ってきた。

 アダムさんは両脚を銃で撃ち抜かれ、ネイマットさんは銃で腹部などを殴られた。「なぜそんなことをするんだ」。アダムさんはそう叫んだ瞬間、家族の面前でナイフで首を切られ、大量に出血して絶命した。「彼らには慈悲がなく、神さえ恐れない。人間ではない」と怒りを込める。

 「家にある全財産を渡せ」。脅されたネイマットさんは家にある金銭や販売用の商品などをかき集めて渡した。「これで解放される」。しかし、蛮行は終わらず、鎖で手脚を縛られて全裸で寝室に監禁された。飲食物は与えられず、10人を超える男たちに連日暴行を受けた。数日後、意識を失い、気付いた時には病院のベッドの上だった。「ショックで全身の感覚が失われ、声すら出なかった」と嘆く。

 ネイマットさんが後に長男ファリスさん(12)から聞いた話によると、自宅は約20日間占拠された後、男たちが気絶したネイマットさんと、監禁されていた子どもたち、そしてアダムさんの遺体を車で遠く離れた路上に運び、放置したという。ネイマットさんは残虐な手口から男たちがRSF以外にないと考えている。

 次男フォウジさん(10)は父親が面前で殺されたショックで家の裏口から飛び出し、今も行方が分からない。ネイマットさんは「あの子のことを考えない日はない。でも今の私にはどうすることもできない」と涙を浮かべる。

 安全のため2~12歳の子ども3人を連れて隣国・南スーダンに逃れた。避難生活を送る中で、「ウガンダなら難民でも安心して暮らせる」といううわさが耳に入った。貨物バスの隙間(すきま)に乗せてもらうなどして、24年7月、ウガンダ中西部のキリヤンドンゴ難民居住区にたどり着いた。

 居住区は難民がウガンダの人たち(ホストコミュニティー)と同じ地域で共生できるよう政府が国内各地に設置しており、居住・耕作用の土地が提供される。キリヤンドンゴは地元民約73万人と難民約13万人が暮らす。

 「人生をやり直せる」。しかし、翌8月、就寝中、何者かにテントを切り裂かれた。危険を感じて今は隣人のテントの一角で寝泊まりをさせてもらっている。

 スーダンの自宅での襲撃の際、銃で殴打された後遺症か、腹部は膨れ上がっている。少し重い物を持つと激痛が走る。居住区の医療施設には検査機器がなく、設備の整った私設病院に行こうにも交通費や治療費が払えない。

 そんな絶望の淵にあっても一つの夢がある。少しずつお金をためて食料品の売店を開くことだ。生計を立てる以外に大切な理由があるという。「食料品店は夫がスーダンで営んでいた。夫の思いを継ぐことで、残された子どもたちと、夫を思い出しながら強く生きていける気がするから」【キリヤンドンゴ郡悠介、写真・滝川大貴】

◇海外難民救援金募集

 毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団は、紛争や災害、貧困などで苦しむ世界の人たちを支援する救援金を募集します。郵便振替か現金書留でお寄せください。物品はお受けできません。紙面掲載で「匿名希望」「掲載不要」の方はその旨を明記してください。

【北海道、東日本の方】
〒100―8051(住所不要)毎日新聞東京社会事業団
「海外難民救援金」係(郵便振替00120・0・76498)

【西日本、中部の方】
〒530-8251(住所不要)毎日新聞大阪社会事業団
「海外難民救援金」係(郵便振替00970・9・12891)

【九州、山口県の方】
〒802―8651(住所不要)毎日新聞西部社会事業団
「海外難民救援金」係(郵便振替01770・2・40213)

 (2024年11月)

海外難民キャンペーン2023年度 1270万円を19団体に贈呈

 皆さまから寄せられた2023年度の海外難民・世界子ども救援金は1270万円となり、今年3月、ウクライナなど各地で支援活動をしている国連救援機関や非政府組織(NGO)など19団体に贈呈しました。毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民救援キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は17億1988万8344円になりました。このうち、東京社会事業団からは、870万円を13団体(※印)に贈呈しました。

 贈呈先は以下の通りです。(順不同)

 国連UNHCR協会※
 国連世界食糧計画WFP協会※
 日本ユニセフ協会※
 国境なき医師団日本※
 日本国際ボランティアセンター(JVC)※
 難民を助ける会(AAR Japan)※
 シェア=国際保健協力市民の会※
 AMDA※
 シャンティ国際ボランティア会※
 ワールド・ビジョン・ジャパン※
 難民支援協会(JAR)※
 緑のサヘル※
 バーンロムサイジャパン※
 ネパール震災プリタム実行委員会
 Piece of Syria
 CLOUDY
 Inna Project
 ペシャワール会
 ロシナンテス

 (2024年4月)

海外難民キャンペーン2022年度 1430万円を22団体に贈呈

 皆さまから寄せられました2022年度の海外難民・世界子ども救援金1430万円をウクライナなど各地で支援活動をしている国連救援機関や非政府組織(NGO)など22団体に今年3月、贈呈しました。毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民救援キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は17億718万8344円になりました。

 贈呈先は以下の通りです。(順不同)

 国連UNHCR協会
 国連世界食糧計画WFP協会
 日本ユニセフ協会
 国境なき医師団日本
 日本国際ボランティアセンター(JVC)
 難民を助ける会(AAR Japan)
 シェア=国際保健協力市民の会
 AMDA
 シャンティ国際ボランティア会
 ワールド・ビジョン・ジャパン
 難民支援協会(JAR)
 緑のサヘル
 バーンロムサイジャパン
 UNDP(国連開発計画)
 TMAT
 Community Life
 アフガニスタン女性支援プロジェクト EJAAD JAPAN
 STAND ALIVE
 ネパール・ヨードを支える会
 アジア子ども基金
 ペシャワール会
 ロシナンテス

 (2023年4月12日)

ウクライナ報道の本紙写真がグランプリ

小出洋平記者が撮影した「ウクライナの空を思う」
小出洋平記者が撮影した「ウクライナの空を思う」

 東京写真記者協会(新聞、通信など36社加盟)による今年の報道写真グランプリの協会賞に、毎日新聞社の小出洋平記者がロシアによる侵攻でポーランドへ避難したウクライナ難民の姿を捉えた「ウクライナの空を思う」(写真)が選ばれました。同協会が11月25日、協会賞をはじめ各部門賞などを発表しました。

 当事業団が展開している世界の飢餓、貧困、難民などを救援する「海外難民キャンペーン」の一環として、毎日新聞社が緊急取材をしました。 今年の報道写真受賞作など約300点を集めた「2022年報道写真展」は、12月14~24日、日本橋三越本店で開かれます。入場無料。

「離散 モルドバ報告」難民救援キャンペーン

 2022年の「海外難民救援キャンペーン」第2弾はウクライナの隣国モルドバで取材を行い、「離散」に苦しむウクライナからの避難民の現状を伝えました。以下すべて【文・宮川佐知子、写真・山田尚弘】(見出し後のカッコ内は掲載日)

戦火に惑う母娘4世代 ウクライナ追われ、別々に 自閉症の孫憂え、母残しドイツへ (6月19日)

 突然の侵攻が、4世代にわたる母娘たちの平和な日々を引き裂いた。

 ルーマニア国境にほど近いモルドバ中西部の人口約1万人の村・カルピネニ。ブドウ畑が点在し、緑豊かな田園風景が広がる。鮮やかな青色の門をくぐると、中庭に十数匹のニワトリが放し飼いにされ、犬が寝そべっていた。簡素な平屋建ての前でニナ・モシエンコさん(64)と母(86)がその様子を眺めていた。

 2人はウクライナ北東部のハリコフ州から隣国モルドバに避難してきた。「今は静かな毎日でほっとしている」と母。しかし、別れの日が近づいていた。ニナさんは自閉症の孫を育てる娘を支えるため、その避難先のドイツに行かなくてはならないのだ。「次はいつ会えるのか」。ニナさんはそう語ると目を赤くし、母は涙をこらえるように宙を見つめた。

 ニナさんは4月上旬、母と一緒にウクライナを出国し、カルピネニにある親族宅に身を寄せている。当初は状況が落ち着けばすぐに戻るつもりだったが、ロシアの侵攻はやまず、避難生活の終わりは見えない。一定の安らぎを得ていたが、どうしても心配してしまうことがあった。ドイツに避難した娘と孫の生活だ。

 ニナさんの一人娘、タチアナ・モシエンコさん(42)には自閉症の長女(9)がいる。シングルマザーで多忙な娘に代わってニナさんが平日に子育てを助け、週末は同じ州内に暮らす母の元で過ごす生活を続けてきた。タチアナさんは自閉症について学んだのをきっかけに障害がある子どもたちのリハビリなどに携わり、充実した生活を送っていた。

 ロシアの侵攻が始まった2月24日、タチアナさんは長女とアパートの地下に避難した。配管が巡る薄暗い空間で毎晩、爆発音の恐怖と寒さに震えながらブーツを履いたまま寝た。「ここに隠れ続けるのは難しい」と脱出を決意。知人のつてで20万円近く払い、国境まで送ってくれる運転手をやっと見つけた。

 3月2日にモルドバ北部の国境に到着。親族に出迎えられ1週間、首都キシナウで過ごした後、過去にタチアナさんが仕事で支援したことのある子どもの保護者を頼って、ドイツに渡った。

 ウクライナにいる時、長女は支援を受けながら通常学級に通っていた。タチアナさんによると、同級生たちと同じように物事を認識し行動するのは難しいが、将来は自立した生活が送れるよう、なるべく多くの人と関わる機会を作り、料理や掃除などを教えてきた。

 同様の環境を期待し、ドイツ南東部の都市パッサウに渡ったが、長女はドイツ語を話せず、現地の学校に通えていない。友達ができないため誕生会には誰も呼べず、代わりに帽子を五つ作って並べた。「今は友達とのコミュニケーションも減ってしまい、今後の成長に影響がでないか心配」と悩むタチアナさん。家の中で過ごすことの多い長女が少しでも人との関わりを増やせるよう、モルドバにいるニナさんに助けを求めた。3人でアパートで暮らすため、準備を進めている。

 「戦争は逃れることができたが、障害や病気の子どもを持つ親は避難先で新たな問題に直面している」。言語や制度の異なる外国で、支援を求め、安心できる生活を築くには、更なる困難が立ちはだかる。

 「『年老いた母を残していくなんて』と言う人もいる。でも娘たち親子を助けないといけない」とニナさん。母は健康に問題はないものの、高齢のため長距離移動は難しい。「こんなことがなければ家族が引き裂かれることはなかった。早く4人がウクライナで平和に暮らせる日が戻ってほしい」

◇ロシアによるウクライナ侵攻が始まったのは2月24日。それから3カ月以上がたったが、今も先行きは見通せず、国外への避難を強いられる人たちがいる。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、6月7日時点で約727万人がウクライナを逃れ、うち約49万人が西隣のモルドバに入国した。国連開発計画(UNDP)は自治体や地域住民と協力し、幅広い支援が受けられる体制づくりを進めている。故郷、家族らと離ればなれになった人々は、モルドバで何を思うのか。「離散」に苦しむ避難者の姿を追った。=随時掲載

◇モルドバ ウクライナとルーマニアに挟まれた欧州東部の内陸国。九州よりやや小さい3万3843平方キロに約260万人が暮らす。公用語はルーマニア語とほぼ同じモルドバ語。1991年に旧ソ連から独立。欧州連合(EU)加盟を目指す。東部には親ロシア派が90年に独立を宣言して実効支配する地域「沿ドニエストル共和国」があり、ロシア軍が駐留している。世界銀行によると、2020年のモルドバの1人当たりの国内総生産(GDP)は4547ドルで日本の約9分の1。

祖国から共にモルドバに逃れてきた母(左)に寄り添うニナ・モシエンコさん=カルピネニで5月26日
ウクライナにいた頃のタチアナ・モシエンコさん(左)と長女=タチアナさん提供

長男戦死、礼装で見送り 「幸福な時間、経験できず」(6月25日)

 軍服に身を包み、銃を構える姿には、あどけなさが残る。「息子は家族や母国を守りたいと思っていた」。スマートフォンに残された写真を見ながら、アナ・ボルギリビッチさん(41)は感情を押し殺すように語った。ウクライナ兵だった長男ビタリーさん(当時20歳)は3月中旬、ミサイル攻撃を受けて命を落とした。

 アナさんはモルドバ生まれだが、20年以上前にウクライナに移住。今年4月、ウクライナ南西部のオデッサ近郊の自宅に夫を残し、出身地に近いモルドバ北東部のショルダネシュティに避難し、次男(12)、三男(8)と教会の施設に身を寄せている。

 ビタリーさんは路面電車を整備する仕事に就いたが、徴兵されて2020年秋から兵役に就いた。直近はウクライナ南部ミコライウ州に着任。家族との間ではほぼ毎日、スマホなどで会話やメッセージのやりとりを続けてきた。3月17日を最後に連絡が途絶えたが、「忙しいのだろう」と心配はしていなかった。

 数日後の夜、地元の役場から突然、アナさん夫妻の所在を尋ねる電話が入った。間もなく、犬が騒がしくほえ、来客を伝えた。暗闇の中、家の前には軍服を着た男性らが立っていた。男性は夫に名前などを尋ねた後、ビタリーさんが亡くなったことを知らせた。就寝中に滞在先の施設が攻撃を受けたという。「息子をこの目で見て、触るまで信じない」。そう泣き叫ぶアナさんに「明日遺体が到着します」と言って軍関係者は去って行った。

 ミコライウからは道路や橋が通れず、遺体が帰ってきたのは2日後だった。夫はビタリーさんと確認した後、「見ない方がいい」と告げたが、アナさんは「どうしても息子に会いたい」とひつぎを開けた。軍服姿でブーツを履いていた。歯の形や腕に刻まれた鳥のタトゥーから本人であることが分かった。寝る時に腕を組む癖があり、ひつぎの中でも同じ状態だった。頭部や顔は負傷していたが、「攻撃を受けた時に寝ていたからかもしれないが、夢を見ているような穏やかな表情でした」。

 翌日の3月25日、自宅付近で営まれた葬儀には同級生、恩師ら多くの人たちが集まり、若すぎる死を悼んだ。「結婚とか、人生の中で最も幸福な時間を経験することなく死んでしまった。私たちにできるのは晴れ姿で送り出すこと」。軍服から礼装に着せ替えた。

 優しい性格で人と争うことはなく、弟たちをよく遊びに連れ出してくれた。「長年かけて温めてきた親子の関係、何気ない会話、その全てが記憶になっていく……」。モルドバにも何度かビタリーさんと帰省したことがあり、自らが幼少期を過ごした場所を見せて回った。その時に訪れた森に最近、次男と三男を連れて行った。悲しみがこみ上げたが、兄を亡くした弟たちを動揺させたくないと平静を装った。

 「国を守るための戦争で多くの命が失われ、残された家族に耐えがたい苦悩を残す。これは大きな悲劇だ。犠牲になるのは一般の人々。政治家はこの争いを一刻も早く止めてほしい」。アナさんはこう訴えた。

生前の長男ビタリーさんの写真が収められたスマートフォンを示すアナ・ボルギリビッチさん=ショルダネシュティで11日

歓待感謝、でも「帰りたい」 ステイ先で穏やかな日々(6月28日)

 「おじいちゃん、今日も学校楽しかったよ」。ソ連時代に建てられた古びたアパートの一室。5畳ほどのダイニングキッチンで、高齢の男性と小学生の女児らがテーブルを囲み、ロシア語で談笑している。つい数カ月前まで出会うことすらなかったウクライナからの避難者を、モルドバの人々は「家族」のように温かく迎え入れた。それでも避難者は、ふとしたことで悲しみに襲われる。心の傷が癒える日は来るのか。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、ロシアによる侵攻後、7日時点で約727万人がウクライナを逃れ、約9万人がモルドバ国内に滞在している。大半が親族や知人を頼って避難してきた人々だが、見ず知らずの家庭にホームステイするケースも少なくない。

 「娘たちは海外に行ってしまって、1人暮らしで退屈していた。誰かの役に立てればいいと思った」。北西部の都市エディネットに住み、ガス関連の仕事に就くアレクシエイ・チェキナさん(62)はそう言うと、笑みを見せた。侵攻が始まって間もなく、ボランティアとして避難者の受け入れを申し出た。ウクライナにいる支援者を通じて3月8日、南部ザポロジエから逃れてきたクリスティーナ・マルギナさん(33)ら4人家族を迎えることになった。

 マルギナさん一家は侵攻が始まった直後から、義母(64)の出身地モルドバへの避難を決めた。気がかりだったのはザポロジエ原子力発電所だ。家からは離れているが、原発はドニエプル川付近にある。何かあったら、流域に住む自分たちも大きな影響がある――。マルギナさんは夫を残して3月上旬、長女(7)、長男(1)を連れてザポロジエを出発。列車などを乗り継いで4日かけてエディネットにたどり着いた。

 「ホストのチェキナさんに温かく迎えられ、久しぶりにシャワーを浴び、ベッドで寝られた時は本当にほっとした」とマルギナさん。アパートは3部屋しかなく、決して広くはない他人の家で初めは不安を感じたが、「台所など家にある物は全て自由に使っていい」などルールを確認し合い、共同生活を始めた。イタリアにいるチェキナさんの娘が家族向けに服を送ってくれたり、一緒に食卓を囲んだりするうちに少しずつ打ち解けてきた。

 マルギナさんの長女は、車で学校に送迎してくれるチェキナさんを「おじいちゃん」と呼んで懐いている。チェキナさんは「早くウクライナに戻れればいいと願う半面、いつかいなくなってしまうと思うと寂しい」。そう思うほど、かけがえのない関係になった。

 一方、避難生活が長期化するにつれ、マルギナさんは複雑な思いを抱える。長女はオンラインでウクライナの学校の授業を受けていたが、「同年代の子どもたちと交流できた方がいい」と最近、ロシア語で教育を受けられる学校に通い始めた。モルドバ語は話せなくても、ロシア語ならウクライナでも使っていたため、コミュニケーションが取れるからだ。

 しかし、教員の中にはロシア支持者もおり、マルギナさんは「なぜウクライナがこんなことになったのでしょう」と面と向かって嫌みを言われたこともあった。「モルドバには親切な人もたくさんいるが、全ての人が私たちの状況を理解してくれているわけではない。ウクライナ国旗を見るたびに帰りたいと思う」と漏らす。

 侵攻後、ウクライナ政府は18~60歳の男性の出国を制限しているが、3人以上子どもがいる場合など出国が認められるケースもある。長女が通う学校には、父親と一緒に暮らすウクライナからの避難児童もいるという。「夜になると娘が『なぜうちにはお父さんがいないのか』と泣き出す。ロシアには親族もおり、『なぜロシアはこんなことをするのか』と聞いてくるが、どう説明したらいいのかわからない」。マルギナさんの目に涙がにじむ。ホストファミリーの支えに感謝しつつ、本当の家族が再会できる日を切望している。

同じ食卓を囲むクリスティーナ・マルギナさん(右端)一家。アレクシエイ・チェキナさん(左から2人目)が住居を提供してくれた=エディネットで5月27日

迫る暴力の影、出国を決意 露軍「協力しないなら暴行」(7月2日)

 ウクライナ南部のヘルソン州は、ロシアのターゲットにされてきた。ミサイルにおびえる生活が100日を超えた6月上旬のある日、アレクセイ・アロヒンさん(36)は「食べ物を探し回る毎日、地下室での生活はもう終わりにしたい」と家族で国外脱出することを決めた。避難にも危険が伴うことは分かっていた。それでも決断した理由は、親類宅に迫った暴力の影だった。

 アレクセイさんは、妻イリナさん(36)と11~3歳の子ども3人の5人家族。ロシア軍が4月末に同州全域を支配下に置いたと宣言するなど、地元は侵攻の影響を大きく受け、一家は多くの時間を自宅の地下室で過ごした。アレクセイさんは警備の仕事をしていたが休職を余儀なくされた。男性はロシア軍に狙われ外出自体が危険なため、食料の買い出しはイリナさんが担った。各地の店を回り、数時間待ちの行列は当たり前。トマトやキュウリなどは自宅の庭で栽培した。

 いつの間にかテレビではウクライナの番組に代わり、ロシアの番組が流れるようになった。インターネットやスマートフォンではウクライナ語のニュースが読めなくなり、一部のSNSも使えなくなった。アレクセイさんは特別な技術で接続制限をかいくぐり、ウクライナ側の発信する情報にも触れ続けた。

 なんとか耐えていたが、ある知らせに潜伏生活の限界を悟った。突然、ロシア兵がアレクセイさんのいとこの家に立ち入り、ロシア側に協力するよう署名を求めてきた。そして「サインしないなら(9歳の)娘を暴行するぞ」と脅したのだ。「ロシアのニュースは市民を攻撃しないと言っているのに矛盾を感じた。他にも、脅されて周囲に言えない人がいるのではないか」

 国外脱出を決意したアレクセイさん一家は6月9日早朝、自家用車で西隣の国モルドバを目指し出発した。「いつ帰ってくるの」。子どもたちは住み慣れた場所を離れることをためらったが、「大切なのはここを離れること。家族の無事が一番」と言い聞かせた。

 ロシア軍によって州内各地に張り巡らせた検問をどう通過するか。「殺されるかもしれない」と恐怖もよぎったが、夫婦で冷静さを保ち、子どもにも落ち着くよう伝えた。検問で訪問先を聞かれた際は「親戚宅に行く」と答えた。州内で通過できる道路は限られており、東側のザポロジエ経由で遠回りをしてオデッサに到達した。イリナさんは「賄賂を要求されると思ったが、たばこ3本で済んだ。最後の検問では子どもたちにオレンジをくれたが、怖かったので食べなかった」と振り返る。

 車が故障したため、最後は知人が国境付近まで送り届けてくれた。ウクライナ政府は18~60歳の男性の出国を制限しているが、アレクセイさんは子どもが3人いるため出国が認められた。モルドバに脱出したのは17日。「ここではサイレンが聞こえず、安全なのだと実感した」。出発から1週間以上がたっていた。

 侵攻後、モルドバにはウクライナから多い時で1日6000人以上が押し寄せ、現在も1000人前後が避難してくる。国境検問所のある南部・パランカでは、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などが常駐し、相談や食事の提供、各地に向かうバスの運行などの支援活動をしている。

 「子どもたちが楽しそうに遊ぶのを見るのは久しぶり」。モルドバ入りした17日、ユニセフ(国連児童基金)が設けた支援施設の一角で、アレクセイさんはほっとした表情を見せた。イリナさんは「大変な状況の中、子どもたちはなんとか3カ月間頑張った。特に息子(11)は警報が鳴ったら率先して幼い妹(3)、弟(7)を地下に誘導するなど責任感が増した」と目を細める。

 これから一家はバスなどを乗り継ぎ、知人のいるポーランドを目指す。「言葉は勉強すればいいし、仕事だって何でもする。安心して暮らせることを考えたら全く問題でない。それより心配なのは、ウクライナに残る妻の両親や親族のことだ」と表情を曇らせた。

ウクライナとモルドバ国境のユニセフなどの国際機関が用意した支援施設で、ウクライナの国の形をしたパズルゲームで遊ぶアレクセイさん一家。アレクセイさんが手にするのは故郷へルソンのパーツ=パランカで6月17日

取り戻せぬ「当たり前」 働く母、収入減で生活不安(7月7日)

 ウクライナから子どもと一緒に逃げてきた母親たちは、モルドバで仕事を見つけ、生活再建を目指す。環境の変化、収入減、育児との両立……。心配事は尽きないが、何より帰郷のめどが立たないことが心をくじく。当たり前の日常はいつ、取り戻せるのか。

 3月9日に長男(10)とウクライナ北東部ハリコフ州から逃げて来たエレナ・ポードレスさん(38)は医師として働いていた。現在は避難者が暮らす宿泊施設で住民の健康管理を担う。収入はウクライナ時代の5分の1。モルドバの一般的な収入よりも下回るが、「家賃や食費はかからないし、何より、誰かの役に立っていることに意義を感じる」と話す。

 ロシアの侵攻が始まった2月24日、自宅付近で大きな爆発があった。住んでいたアパートには避難できる場所がなかったため、15分で荷物をまとめ、元夫の実家に逃げ込んだ。サイレンが鳴ったら地下に潜り、すぐに外に出られるよう携帯電話や服を近くに置いて、長男とはトイレや入浴時間も含め片時も離れなかった。約1週間後のある朝、「どこかに行こう」という長男の一言をきっかけに国外避難を決意。愛車を運転しモルドバを目指した。夜間は移動禁止のため車中泊したが、寒さで眠れない日も。約900キロ、7日間の決死行で、国境を越える時、「もう帰れない」と思うと涙が止まらなかった。

 モルドバ北東部の都市ソロカにあるおばの家にたどり着いた時は安心して、数日間、ほぼ眠り続けた。しかし「このままずっと休んでいるわけにはいかない」と思い、避難から約1週間後には職探しを始めた。

 ウクライナでは医師として地域医療に貢献した。「具合が悪くなると真っ先に私に連絡が来る。頼りにされやりがいがある仕事だった」。モルドバでも医療職に就きたいと考えたが、モルドバ語(ルーマニア語とほぼ同じ)が分からないことなどから断念。市役所で避難所の健康管理の求人があると知り、即応じた。

 約40人が暮らす施設で住み込みで働く。元々地元の子どもたちが夏休みを過ごす場所で、緑の中にコテージが並ぶ。新しく来た避難者から家族構成や基礎疾患などを聞き取り、治療が必要なら医療機関を紹介する。避難者に積極的に声をかけ、体調不良や悩み事がないか耳を傾ける。就労を望む女性も多いが、子どもの預け先の確保などがネックとなり、実際に働く人は少ないという。

 ポードレスさんは今でも母国の患者と携帯電話で連絡を取り、体調や薬の相談に乗る。「ウクライナにいる患者のことが心配。私の全てはウクライナに残してきてしまった。早く帰りたい」

 ウクライナ南部オデッサ出身のナリア・ズボンナロバさん(38)は、3月末にモルドバに避難し、東部クリウレニの職業訓練学校に開設された避難施設に長女(8)と一緒に住んでいる。モルドバ各地にある避難施設では国連世界食糧計画(WFP)などによる支援で食事が提供されている。ズボンナロバさんは施設内の食堂で働いている。育児との両立が心配だったが、長女は朝昼晩、母親が働く食堂に食べに来るため、様子が確認できて安心という。

 ウクライナでは水道の検査に関わる仕事をしていた。現在は朝から晩まで皿洗いや掃除を任され、体力的にハードな毎日を「スポーツみたい」と語る。それでも「ずっと部屋にこもって憂鬱になるよりはいい」と気持ちを切り替える。賃金はウクライナ時代の半分以下。避難生活は家賃や食事代はかからず、金銭補助で必要最低限の物は賄えるが、支援が切れた時のことを考えると眠れない。

 「冬服しか持ってこなかったので、子どもに新しい服や靴を買ってあげようと思うとあっという間にお金がなくなる。動物園などにも連れ出したい」「安い車を買って、娘といろいろな場所に行くのが私のささやかな夢」。そんな当たり前の生活を、これほど遠くに感じたことはない。

長男と話すエレナ・ポードレスさん(右)=ソロカで6月4日

「客人に最善の部屋」 裕福でない小国、善意が支え(7月8日)

 2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻で、西隣のモルドバには6月末までに約51万人が逃げ込み、今も約8万人が避難生活を続けている。経済的に裕福とは言えない人口約260万人の小国にとって受け入れの負担は重い。それでも人々が助けの手を差し伸べるのはなぜなのか。

 南部の都市コムラトに住むナタリア・ペトロバさん(56)は3月上旬から2カ月間、ウクライナ南部ミコライウから来たいとこら10~81歳の親族7人を自宅で受け入れた。7人分の食材は自治体から支給されたが、光熱費や水道代などを合わせると世界食糧計画(WFP)からの給付では足りず、自己負担している。

 ペトロバさんは視覚障害のある母と難病を抱え車椅子で生活する娘の介護で働くことができず、母の障害年金などで生活している。借金もあるため予想外の出費は痛手だったが、「自分はこれまで、困っても人に助けを求めることができなかった。他の人にはつらい思いをしてほしくない」と涙ながらに語る。

 7人は現在、ドイツやイスラエルに滞在しているが、ペトロバさんの家に車や荷物を残しており、秋ごろモルドバに戻る予定だ。「ウクライナの状況次第だが、また頼りにされたら拒めない。秋以降は気温が下がり暖房費がかさむだろう。神が助けてくれると信じるしかない」

 モルドバの避難者受け入れは国民の善意に支えられる部分が大きい。避難者は主に▽公共施設などに設けられた宿泊所▽モルドバ人の一般家庭▽賃貸住宅――に滞在しており、多くは親族や知人のつてで一般家庭にホームステイしているとされる。避難者には国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から1人月2200モルドバレイ(約1万5000円)が支給される。WFPは避難者2人以上を受け入れる家庭に5月以降に計2回、各3500モルドバレイ(約2万5000円)を支給している。一方、5月時点で食料品が前月比2・5%、前年同月比では3割上昇するなど、物価の値上がりは深刻だ。戦況も長引いており、負担増には懸念が広がる。

 避難者支援を統括するモルドバ政府危機管理センター長のアドリアン・エフロス大佐は「モルドバでの人道支援に対して、日本を含む各国、国際社会からの資金援助には大変感謝している。しかし、故郷に戻れない人はいまだ多く、今後さらに支援が必要だが、それはモルドバだけでは賄いきれない」と訴える。

 UNHCRモルドバ事務所のフランチェスカ・ボネリ代表は「モルドバ政府や国民による迅速な対応、団結力には驚いた。『客人には最善の部屋を用意する』という国民性を反映しているのではないか」と話す。避難生活が長期に及ぶことから「避難者の社会統合を目指し、就労支援や教育の提供などをモルドバだけに任せるのではなく、財政面などで国際社会の支援が必要だ」と指摘する。

 ペトロバさんと同じコムラトに住むアンドレイ・シェビルさん(26)はロシア語の教員を務める傍ら、ボランティアで避難者の支援に携わる。コムラトはウクライナ国境に近いため避難者が多く、3月ごろは昼夜問わず携帯電話が鳴った。ほとんどが送迎依頼で、シェビルさんは車を持っていないため知人に運転を頼み、燃料費は貯金を取り崩して負担した。夜間は避難者向けの宿泊施設に泊まり込み安全確認に当たった。最近は新たな避難者が減ったが、SNS(ネット交流サービス)で情報発信したり、生活の相談に乗ったりしている。

 シェビルさんによると、地元住民の感情は複雑だ。近所の人や職場の同僚には「モルドバ人も困っているのになぜウクライナ人を助けるのか」と嫌みを言われることもあるという。

 コムラトのあるガガウズ自治区は、モルドバ語のほか、少数民族ガガウズ人が話すガガウズ語、ロシア語が公用語になっているが、学校や日常生活ではロシア語が使われることが多い。シェビルさんは「ロシアのニュースを情報源にしていたり、ロシアに親近感を持ったりする人も多いのではないか」と話す。勤務先では特に年配の教員の間で避難者を快く思っていない人が多く、生徒も家庭での影響か「ウクライナ人が悪い」と口にすることがある。

 シェビルさんの祖父はウクライナ出身だが、それ以上に「困っている人の力になりたい」との思いで支援に携わる。生徒には「何人だろうと目の前に困っている人がいたら助けなくてはいけないよ」と諭す。

 このままでは、いずれ限界が訪れる。そう感じるシェビルさんは「ウクライナの人たちも地域に溶け込むことが大切なのではないか」と指摘する。モルドバ政府はウクライナからの避難者の積極的な雇用を呼びかけており、「仕事に就く避難者が増えることで、『自分たちの社会保障が減る』といった不安が消え、モルドバ人の受け止め方も変わってくるのではないか」とも言う。そして「受け入れは突然の出来事だったが、政府や自治体、国民は短期間でそれぞれができることをやってきた。今後のモルドバにとって貴重な経験になるはず」と力を込めた。

ウクライナの避難民から相談を聞くアンドレイ・シェビルさん(左)=コムラトで6月

「ウクライナ侵攻」難民救援キャンペーン

 毎日新聞と毎日新聞社会事業団による「海外難民救援キャンペーン」としてポーランドに取材チームが入り、戦火を逃れたウクライナ難民の現状を随時掲載しました。新聞に掲載された全文と全写真を紹介します。以下すべて【文・平野光芳、写真・小出洋平】(見出し後のカッコ内は掲載日)

「元の生活、戻りたい」 手荷物わずか、母子脱出 (3月15日)

 ウクライナ西部に隣接するポーランドの国境の町、メディカ。13日朝、国境検問所を歩いて越えてきたオレナ・ジンチェンコさん(30)の長女ヤロスラバちゃん(4)は、ボランティアからぬいぐるみを受け取ると久しぶりに明るい表情を見せた。

ウクライナから国境を越え、歩くヤロスラバちゃん(手前右)とイエゴールさん(同左)=ポーランド・メディカで13日

 「おもちゃも教科書も学用品も何も持ってこられなかったんです」とオレナさん。ウクライナ南部クリビリフで、エンジニアの夫と小学2年生の長男イエゴールさん(8)の4人で暮らしていた。仕事はスーパーのレジ係。「住まいや子供たちの学校、幼稚園にも満足していました」

 しかし2月下旬に始まったロシア軍によるウクライナ侵攻で生活は一変した。クリビリフの空港もロシア軍の爆撃を受け、約20キロ離れた自宅までごう音が響いた。「ここでは安全を確保できない」。そう考えたオレナさんは脱出を決意。ウクライナでは現在、18~60歳の男性の出国が認められていないため、避難者の多くは女性や子供だ。家族が離れ離れになるのは苦しかったが、オレナさんらは母子だけで11日に避難を始めた。

 クリビリフから西部リビウに向かう電車は避難客で大混雑し、大型の手荷物は持ち込めなかった。リュックに詰め込んだのは母子3人の1~2日分の着替えだけで精いっぱい。リビウ到着後は、知人に車で国境まで送ってもらった。今後はポーランドで暮らす親族の手助けで仮住まいに移る。

 子供が教育を受ける機会を失ったのが残念でならないという。「夫の安全が心配です。子供たちも『早く家に帰りたい』と話しています。ただ元の生活に戻りたいだけなのです」。オレナさんは手で涙を拭った。

 検問所前には約150メートルにわたり、援助団体などが設置した無料の屋台が並ぶ。ピザやスープといった食事が振る舞われ、医療品やおむつ、粉ミルク、離乳食、おもちゃも配布される。わずかな手荷物で避難してきた母子が次々と手に取っていた。

 検問所近くの路上では、生後3カ月という男児がベビーカーの中で寝ていた。ウクライナ中部から避難してきたボロニナ・バレンティナさん(32)の五男ムイコラちゃんだ。ボロニナさんは9歳までの6人の子供をバスに乗せて移動し、13日未明に国境を越えたばかり。「出入国手続きの際、子供たちが散らばらないようにするのが一番大変でした」。疲れ切った表情だが、子供たちは配布された人形や車のおもちゃを手にしてはしゃいでいる。「通信状態が悪く、家に残る夫とはなかなか連絡が取れません。心配です。戦争は大嫌いです」

ウクライナから逃れる避難民たち 祖国に残る父親と離れ、母親に連れられた子供たちが目立つ=ポーランド・メディカで

「露軍の恐怖よみがえる」 71歳、暗闇と寒さに耐え脱出 (3月17日)

 真っ暗な部屋でただ一人、ロシア侵攻の恐怖と氷点下の寒さに耐えた。「電気も水道もガスも壊されて来なくなりました。暖房が使えず、ろうそくすらありませんでした。3日間続きました」。戦禍のウクライナ南部ニコラエフ郊外から国境を越え、友人らとポーランド南東部メディカに逃れたタチアナ・ドフチェンコさん(71)は振り返った。

 ロシア軍の侵攻が始まった2月24日以降、自宅の近くにも爆弾が落ち、窓ガラスが爆風で壊れた。「自宅周辺の地区がロシア軍に包囲され、外に出られなくなりました」。インフラが破壊され、1人暮らしの高齢者がとても生活できる状況ではない。見かねた親族が車を出し、危険を冒して包囲網を突破した。1000キロ近い距離を電車や車を乗り継ぎ、3月12日にメディカに到着。国境検問所近くの体育館に設けられた避難所でようやく一息ついた。

 避難所には簡易ベッドで数百人が寝泊まりし、ここから親族や知人、援助団体を頼って別の場所に移動する人が多い。無料で食事や衣類が手に入り、常駐するカウンセラーが避難者の心身にも気を配る。ただ子供たちが大声を上げたり、どたばたと走ったりすることもある。「そんな音ですら怖いと思ってしまいます。自宅で経験した爆発の恐怖がよみがえってくるのです」。長女が暮らすイタリアに向かうという。

 ドフチェンコさんの近所に住み、一緒に逃れてきたエリザベス・ドラグシニエッツさん(61)は、故郷に残る息子家族のことが片時も頭から離れない。連日の爆撃が恐ろしく「危ないから一緒に逃げよう」と説得したものの、家族は「ウクライナ軍がすぐに勝つから大丈夫だ」と信じて動かなかったという。「今は自分だけ避難してしまったことに罪悪感を覚えます」。こらえきれずにすすり泣いた。

 ドラグシニエッツさんの母方はロシア出身で、自身もロシア語が堪能だ。しかし「ロシア軍を憎みます。もうロシア語は話したくない」。穏やかだった日常は一変した。「こんなことが起こるとは思いもしませんでした。恐ろしい悲劇です。だれにもこんな思いをしてもらいたくありません」

ウクライナから逃れた人たち向けに用意された避難所で悲しみに暮れるタチアナ・ドフチェンコさん(右)とエリザベス・ドラグシニエッツさん=ポーランド南東部の国境の町メディカで13日午後

「毎日爆撃」車椅子で脱出 ポーランド無料列車で西へ (3月20日)

 ポーランドの東端に位置するプシェミシル駅は、ロシアによる攻撃を逃れてウクライナから国境を越えてきた難民が集まる駅だ。人々はここからポーランドや欧州各地に向かう。18日午前、急行電車がホームに入ると、大きな荷物を抱えた難民が次々と乗り込んできた。座席の半分以上が埋まった。ポーランド政府は難民の電車代を無料にして移動を支援している。定刻の午前10時1分、電車は西に向かって進み始めた。

 2等車の端にある障害者用スペースで車椅子に座っていたセルゲイ・イレンコさん(52)は、妻ユレアさん(42)と17日に600キロ以上離れた首都キエフ南郊の町を出発して逃げてきたばかり。「階段を一人で下りられません。警報が鳴っても防空壕(ごう)に避難できないんです」

ポーランドに入国後、列車で西へ向かうセルゲイ・イレンコさん

 けがで障害を負い、20年ほど前から車椅子で生活する。自宅はアパートの3階。非常事態のためエレベーターが使用停止となり、外出が困難になった。「自分が生まれ育った町を離れたくはありませんでした。でも町は毎日のように爆撃され、戦争がいつ終わるか分かりません」。食料や日用品も手に入りにくくなっていた。

 ウクライナ国内に援助物資を届けに来たポーランドのボランティア団体が、帰りの車で避難させてくれることになった。ミニバンなど車2台に女性や子供ら20人ほどが分乗し、13時間かけて国境を越えた。ウクライナは18~60歳の男性の出国を禁止しているが、障害がある人などは除外される。「とても疲れました」。ポーランド国内の親戚を頼って仮住まいを探す。

 同じ電車に乗っていたマリア・フィデブさん(38)は、次女ロマナちゃん(4)を抱っこして座っていた。「今朝の空爆を知り、急いで避難してきました」。比較的安全とされてきたウクライナ西部の都市リビウのアパートで暮らしていた。国内の別の町に住む友人からは「ロシア軍に包囲され、水や食料が手に入りにくくなった」と聞いていたが、自分の周りでは侵攻の実感があまりなかった。

子供たちと列車で避難するマリア・フィデブさん=いずれもポーランド東部で18日

 ところが18日朝になってリビウの空港近くにもロシア軍のミサイルが着弾した。子供たちの安全を確保しようと、長女ヤレナさん(15)と3人で脱出を決意。夫に国境まで車で送ってもらい、徒歩でポーランドに入った。「夫のことが心配です。戦争は恐ろしいです」

 マリアさんらはプシェミシルから1時間ほど電車に乗り、途中駅で下車していった。近くの友人を頼って滞在先を探すという。戦火を逃れた後も、人々の苦難の旅は続く。

見通せぬ未来、戦火逃れ (3月21日)

 ロシア軍による攻撃から逃れるため、ウクライナから周辺国に避難する人々が増加の一途をたどっている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、18日時点でその数は約327万人。半数以上をポーランドが占め、他にルーマニアやモルドバ、ハンガリーなどに多くの人々が逃れている。そこから親族や知人、支援団体を通じてドイツ、フランスなど別の国に渡るケースも多い。

ポーランドへ避難した状況を振り返り、涙するエリザベス・ドラグシニエッツさん=ポーランド南東部の国境の町メディカで13日
難民向けに用意されたバスに乗り込み、空を見上げる女性=メディカで13日

 周辺国は必死に難民を受け入れている。ポーランドでは入国直後からボランティア団体などが食事や衣服、日用品、子供用品を無償で提供。携帯電話のSIMカードも配布し、母国とスムーズに連絡が取れるように配慮している。ポーランド南東部メディカの国境検問所前で衣料品を配布していたボランティア、トマシ・ビエルズビッチさん(22)は、「ポーランドだっていつ戦争に巻き込まれるか分かりません。明日は自分が助けられる側になるかもという思いで支援しています」と話した。

ドイツ行きの列車に向かうウクライナからの難民たち=ポーランド・クラクフの駅で16日
疲れた様子でバスを待つお年寄り=メディカで13日

 メディカでは13日朝、国境検問所を歩いて越えてきたオレナ・ジンチェンコさん(30)の長女ヤロスラバちゃん(4)がこうしたボランティアの人々からぬいぐるみを受け取り、笑顔を見せた。「おもちゃも教科書も学用品も何も持ってこられなかった」と母のオレナさんは振り返る。長男イエゴールさん(8)と母子3人で戦火を逃れてきたが、オレナさんの夫は今もウクライナに残っているという。

 今回は「欧州における今世紀最大の難民危機」とも言われる。長期化すれば住宅や雇用、教育など受け入れる側にとっても影響は大きい。欧州各国も難しいかじ取りを迫られる中、難民の未来は見通せない。

幼児を抱き、バスを待つ列に向かう女性
数百床のベッドが並ぶ避難所では、母子らがつかの間の休息を取っていた=いずれもメディカで13日

滞在先、見つからない 相談所に長い列 (3月22日)

 ポーランド南部の古都クラクフは、ウクライナとの国境から電車で3時間半の交通の要衝だ。クラクフの中央駅は今、難民でごった返し、炊き出しや衣料・日用品の配布といった支援の拠点にもなっている。16日昼、駅構内にある難民向けの住宅相談所を訪れると、数十人が列を作っていた。

 ウクライナ東部から娘2人とポーランド入りしたイリナ・ソロマシェンコさん(39)は「利便性が高いクラクフ中心部で滞在先を探しています」と話す。今は民家の一室を無料で間借りしているが、中心部から50キロ離れた郊外にあり、移動が大変だ。新しい物件を探す相談に来たが、この日は条件に合う住まいが見つからず、引き返すしかなかった。紹介所の担当者は「物件は限られており、希望に応えるのがだんだん難しくなっています」と話す。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、ロシア軍による2月24日のウクライナ侵攻開始以降、ポーランドには3月18日時点で約200万人の難民が押し寄せている。ポーランドの人口の5%にも相当する膨大な人数だ。国民はおおむね受け入れや支援に前向きで、自宅の一室を無料で貸し出す市民もいるが、安定した滞在先の確保は常に課題だ。

 クラクフ中心部のワンルームのアパートではカリナ・チェルカシナさん(31)が10歳と3歳の息子に本の読み聞かせをしていた。それを見ていたカリナさんの母ラリサ・イエレメンコさん(51)は話した。「避難先がすぐに見つかったのは幸運でした」

親族が借りてくれたワンルームのアパートで過ごすカリナ・チェルカシナさんと子どもたち=16日

 ウクライナ東部ドニプロから、12日に3世代4人で逃れてきた。「頻繁に空襲警報が鳴るのに避難できる防空壕(ごう)もありませんでした」。すし詰めの列車やバスで国境を越え、クラクフで暮らす親族が借りてくれたこのアパートにやって来た。部屋は8畳ほどで手狭だが、政府やボランティアの支援で衣料品や薬も手に入った。

 ただ、少しずつ整っていく自分たちの生活と爆撃にさらされる故郷との隔たりは大きくなっていく。「ここでは皆に良くしてもらっています。でも自宅に残る夫らのことがとても心配です」。戦争についてどう思うかと尋ねると、しばらく沈黙した。ほおには涙が伝っていた。「言葉になりません」

戦争が家族を裂いた クリミア出身、両親は露支持 (3月23日)

 ウクライナの戦火を逃れてポーランドに避難してきたオリガ・ルミャンツェワさん(27)は14日、2週間ぶりに故郷を見ようとポーランド側から国境線の柵のすぐそばまで来た。林や草原が広がるのどかな景色で、柵の向こうから犬の鳴き声が聞こえてくる。「こんなに近いのに、今はカナダより遠くに感じます」。そう語ると、目から涙があふれてきた。「戦争中の国の空はどんよりしていると思い込んでいました。でも空は青く美しいままです」

ウクライナとの国境地帯(後方)が見える場所に立つオリガ・ルミャンツェワさん=ポーランド東部のコルチョバで14日午後

 ソ連崩壊3年後の1994年、ウクライナ南部クリミア半島で生まれた。父はロシア・シベリア、母はウクライナ南部オデッサの出身で高校卒業までは家でも学校でもロシア語を使っていた。2012年に首都キエフの大学に進学した時は「ウクライナ語がうまく話せませんでした」。友達との交流を通じて次第に上達した。

 14年、在学中に起きたロシアによるクリミア併合が家族の分岐点になった。クリミアではロシアへの同化政策が進み、キエフからの直通列車は廃止。検問所が設けられ、年3、4回していた帰省も気軽にはできなくなった。父は少しは理解できていたウクライナ語を忘れた。そのままキエフで就職、結婚しウクライナ人としての意識が高まる自分とは正反対だった。

 キエフにロシアが侵攻してくるとは想像もしなかった。2月24日朝、突然、空襲警報のサイレンが鳴った。その後、警報の度に自宅アパートから近所の地下にある小劇場に避難した。

 翌25日、友人が「今から車で避難する。席が空いているので、乗りたければ30分以内に来てほしい」と電話をかけてきた。夫と別れたくなかったが、夫は「君は安全な場所にいてほしい」と後を押した。急いで荷物をまとめた。ポーランドとの国境検問所は大渋滞で、通過に三日三晩かかった。ただ、ようやく国境を越えてこみ上げてきたのは安堵(あんど)ではなく、「罪悪感」だった。「多くの人が国を守るために残っている」と自分を責めた。

 実家の両親はロシアのメディアを通じて戦況を知り、「ロシアがウクライナを救うために介入している」と信じている。娘に「おまえは間違っている。ウクライナ政府が言っていることはすべてウソだ」と、携帯電話に頻繁にロシア発のニュースを転送してくる。「あまりに不快で最後まで読めません」。反論はせずに放置している。「家族の関係にはさまざまな要素があります。政治的な見解の違いだけで関係を破綻させたくはありません」

 今はポーランド南部クラクフの知人宅に身を寄せる。少しでも母国の役に立ちたいと、避難してきた友人らとウクライナに子供用品や医療品など支援物資を送る活動をしている。

 いつか必ずウクライナに帰る。「廃虚のままにはさせません。戦争前よりももっと美しく、輝く国をつくるために全力を尽くします」

「戦争終わって」日本で祈る 母娘、大好きな母国脱出 (3月27日)

 日の丸の旗がはためくポーランド・ワルシャワの日本大使館。3月21日午前9時、ウクライナ・キエフから逃れてきた主婦のオレシア・サブリバさん(49)は20歳と13歳の娘2人と共に、日本滞在のためのビザ申請に訪れた。「爆発が毎日朝から晩まで。本当に怖い」。日本語で思いを語った。

ビザの申請に日本大使館を訪れたオレシア・サブリバさん=ポーランド・ワルシャワで21日

 ロシアの侵攻は2月24日に始まったものの、当初は自分たちが暮らすキエフ中心部はあまり被害を受けなかったという。ところが3月5日ごろから状況が一変した。友人宅の隣のマンションが攻撃を受けたり、近所の駐車場でも爆撃で車が全て破壊されたりした。

 危機は身近に迫るが、大好きな母国を離れる決断はなかなかできなかった。「すぐ終わる、明日終わる、あさって終わる」と祈るような気持ちだった。「本当に怖いのは最初の1日だけです。あとは映画の中に自分が入っているみたい。信じられないことになっています」。夫を家に残し、娘らとボランティアが運行する避難バスに乗って、19日にポーランドに逃れた。

 2000年まで4年間、日本で暮らし、旅行会社で働くなどした。その後も毎年のように日本を訪れ、家族ぐるみで付き合う友人も多い。今回は大阪の友人が受け入れ先となってくれて、深く感謝しているという。

 ただ21日は日本の祝日・春分の日で、ポーランドの日本大使館も休館だった。サブリバさんは22日に出直してビザを申請し、23日に受領。28日に渡航する予定だ。ポーランドには頼れる人がおらず、滞在費もかかるため、早く支援者がいる日本に行きたいという。「あと2週間で(戦争が)終わるかな……。終わってほしい。戦争が終わればすぐにウクライナに戻りたい」。自分に言い聞かせるように話した。

 22日は開館と同時に数組のウクライナ人家族が大使館に入り、日本ビザの申請や受け取りを行った。東京在住の30代のウクライナ人男性は、ウクライナ北東部ハリコフからバスでワルシャワに避難してきた母親のビザ申請を手伝うため急きょポーランド入りした。戦争に心を痛め、都内の反戦デモにも参加。今回は母親を日本に連れて帰り、しばらく面倒を見る。ただ自宅は決して広くなく、長期化への不安もある。「悲惨な戦争です」。男性はそうつぶやいた。

避難の児童、1割占め 授業理解に言葉の壁 (3月28日)

 20人ほどの児童のうち、7人が手を挙げた。17日、取材に訪れたポーランド南東部ジェシュフの公立ジェシュフ第16小学校で、記者が「最近ウクライナから来た子は手を挙げてください」と頼んだ時のことだ。見学したのは5年生の2時間目のポーランド語(国語)。教室では女性教諭が黒板を使って授業をしていた。

 前から3列目に座っていたマリアナ・スリブニツカさん(11)も首都キエフから逃れ、3年生の妹クリスティナさん(8)と9日から通い始めたばかり。近所の高層アパートで母親らと仮住まいし、毎朝姉妹で20分ほどかけて徒歩で登校する。「好きな授業は体育。言葉が分からなくても楽しめるから」。小学校の玄関にはカラフルなリュックサックが30個ほど山積みになっていた。ウクライナから満足な荷物も持てずに避難してきた子供に使ってもらおうと、保護者らが用意した無料の通学用かばんだ。

ウクライナから避難後、ポーランドの公立小学校に通うマリアナ・スリブニツカさん(中央)=ポーランド南東部ジェシュフで17日

 国連児童基金(ユニセフ)によると、約750万人のウクライナの子供のうち約430万人が今回のロシアによるウクライナ侵攻で自宅を追われ、うち180万人以上は国外に避難した。戦闘の長期化が懸念される中、子供たちの「学ぶ権利」をどう保障するかも大きな課題だ。第16小でも2月下旬以降、難民の子が続々と入学しており、全校児童約570人の1割を占めるまでになった。

 「一番の問題はコミュニケーションです」と話すのはドロタ・ジョンサ校長だ。ウクライナ語とポーランド語は同じスラブ系の言葉で、通訳なしでも意思疎通できることはある。ただウクライナから来たばかりの子供がポーランド語の授業を即座に理解するのは困難。学校側はウクライナ人教員を採用して、一部学年では難民専用クラスを設ける方針だ。

 ポーランドでは近年、ウクライナから仕事を求めて移り住む人が増えており、第16小にも以前から10人ほどのウクライナ人児童がいた。ある教諭は「ウクライナ人の友達や知り合いがいない人はいなかった。それが今回、ロシアに侵攻されたウクライナへの共感、支援につながっている」と話す。ウクライナ人の子供たちは支援すればポーランド語もうまく話せるようになってきた。ただ、これほど多数の難民の子を急激に受け入れるのは経験がなく、対応は手探り状態でもある。それでもジョンサ校長は話す。「困難な状況の子供たちを助けたいです。協力したり、お互いの文化を尊重したりする。在校生もその大切さを学べます」

国境越え、続く苦難 ポーランドに逃れた人々 (4月4日)

 ウクライナから周辺国に逃れてきた難民は400万人を超えた。戦火を避けて国境にたどり着くまでには、ロシア軍の包囲網を命がけで突破したり、満員の列車やバスで十数時間移動したりしてきた人も少なくない。

 ただ国境を越えた後の道のりも厳しい。ポーランドをはじめとする受け入れ国では、難民の増加に伴って住宅事情が悪化している。利便性が高い大都市部では賃料が上がり、希望通りの家を見つけるのが難しい。一部の難民はテレワークで元の仕事を続けるが、多くの人は避難と同時に失業し、収入を失った。言語が違う国で子供の教育の機会をどう確保するのかも課題だ。

ウクライナのへルソンから避難し、ポーランドで働く夫と再会を果たして涙する妻と子。ポーランド南東部の国境の町メディカには今もウクライナ難民が次々と入国している=3月23日
大きな荷物に埋もれるように座り込み、列車を待つ子供たち=ポーランド南東部のプシェミシル駅で3月17日

 約230万人が避難するポーランドでは、政府が難民に住民サービスを提供するためのID番号発行が始まった。教育や医療、福祉などで地元住民並みの支援が受けられるようになるため、登録会場には多くの難民が殺到。政府側の作業が追いつかずに混乱する場面も見られた。

ポーランド国内で医療や教育などの公的サービスを受けたり、働いたりするための登録証を得ようと、手続き会場前で列を作る難民たち=首都ワルシャワで19日

 精神的な苦痛に悩まされる人々も多い。親族や友人を母国に残し、「自分だけ安全な場所に避難してしまった」と罪の意識を抱く難民もいる。避難前に自宅で聞いた爆音が心の傷となり、避難所でささいな物音におびえる人がいた。スマートフォンで侵攻関連の速報がすぐに入手できる半面、「心が痛んで他のことができなくなるから」と、ニュースをチェックする時間や回数を自分で制限する人もいた。

足元を気にしながらつえをつき、ポーランドに入国したお年寄り。うつむきがちな顔を上げると、険しい表情が傾きかけた太陽に照らし出された=メディカで17日

 住む場所、収入、仕事、教育、家族との暮らし、心の平穏……。市民からそれを根こそぎ奪うのが、戦争の一面だ。

 「早く元の暮らしに戻りたい」。難民たちの思いがかなうのは、一体いつになるのだろうか。

徒歩で国境を越え、用意されたバスで市街地方面へ向かう難民たち。混み合う車内で皆、疲れ果てた様子だった=メディカで3月24日