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歩み(これまでの活動紹介)

99年~07年 大規模災害の被災地へ

第57回パキスタン 配給される食料を受け取ろうと、トラックに向かって必死で声をかける少女=北東部ムザファラバードで05年、佐藤賢二郎撮影

第57回パキスタン
配給される食料を受け取ろうと、
トラックに向かって必死で声をかける少女
=北東部ムザファラバードで05年、佐藤賢二郎撮影

 21年目から現在までの10年間では、アフガニスタンやパキスタン、スリランカなど大規模自然災害の被災地に11取材班を派遣した。児童労働やエイズなどの社会問題も露呈し、避難民情勢は多様化・複雑化の様相を見せた。また、01年度から名称を「難民キャンペーン」から「世界子ども救援キャンペーン」に変更、未来を担う子どもたちにより重点を置いた報道を心がけた。

 アフガニスタンには01~03年度にかけて計5取材班が入った。人々は紛争と干ばつなどに疲れ果てていた。ある女性(30)は、家族8人で5メートル四方の段ボールの家に住み、極度の栄養失調の息子(2)は体調悪化が心配された。女性は「すべてを失い、疲れ果てました。この子もやっとで、生きているんです」と訴えた。記事がきっかけで日本各地の学校との交流も生まれた。日本の小学生が「戦争のない平和な世界になる。そう信じ続けて希望を持ってネ!」と書いた色紙を贈ると、アフガニスタンの小学生は「私は将来についていつも考えています。平和になってほしい」と切実な思いを返事に込めた。

 インド洋大津波で被害が出たスリランカには3取材班が入った。被災と断続的な内戦状態という二重の苦しみの中、力を合わせて生き抜こうとする人々の様子を伝えた。

 05年10月に発生したパキスタン大地震では、2取材班が現地入り。がれきと化した街で寒さの中、限られた食料に群がる被災民の姿を伝えた。第57回(05年度(3))はパキスタン北東部のムザファラバードで、少女とその父親の姿を撮影。

  「配給された食料を受け取ろうとしていた親子がいた。でも、なかなか手の中に入らない。トラックに向かって必死で差し伸べる少女。まるで天に祈るかのような瞳をしていた」。この写真を含む一連の写真報道に06年度の新聞協会賞が贈られ、キャンペーンに一つの歴史を刻んだ。

 第53回(04年度(1))は、ザンビアと南アフリカでエイズ問題を正面から取り上げた。売春、虐待、遺児……。爆発的な感染に立ち向かう様子を報告した。第62回(07年度(2))は、ネパールとインドで児童労働の現場に足を運んだ。雇い主の目をかいくぐって確認した事実の数々は、児童労働が大消費地での安価な商品供給の源になっている、いびつな構造をあぶり出した。

 03年3月に開戦したイラク戦争では、第50回(03年度(1))が5月にバグダッドなどに入った。空爆で電気の供給が絶たれたため、保育器が機能せず、医師は「未熟児が次々と死んでいった。毛布も足りず、手の打ちようがなかった」とうつむいた。

 アフリカでは、「世界最悪の人道危機」と称されるスーダン西部のダルフール紛争がクローズアップされた。第54回(04年度(2))は西隣のチャドで、第59回(06年度(1))はダルフール地方内で、避難民の声を伝えた。急襲された不安から、レンズを見つめる子どもたちの視線は険しく、年老いた女性は「ただ生きているだけ」と語った。

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