主な事業/国際協力に関する事業(海外難民救援事業【旧「世界子ども救援事業」】)

2015年ネパールから 少女たちの祈り (4)

竹で編まれた自宅の部屋で過ごすマンマヤ・ブジェルさん=ネパール・ダマクで

竹で編まれた自宅の部屋で過ごすマンマヤ・ブジェルさん=ネパール・ダマクで

 「古里を去るのは寂しい。でも、持って出ようと思うものは何もないわ」。ネパール東部ダマクにある「ブータン難民キャンプ」を出て、米国で新しい人生を始めようとするマンマヤ・ブジェルさん(20)はそう言い切った。「幸せの国」といわれるブータンでは1980年代後半、民族主義的な政策から、政府が言語や宗教の異なるネパール系住民を弾圧し、10万人以上がネパールに逃れた。キャンプで生まれた若い世代は、ブータンやネパールではなく、米国やカナダなど第三国での定住に希望を託す。

 森を切り開いてできたキャンプは時間の経過とともに周辺集落との境界もあいまいになり、難民と村人が自由に行き来する。双方からの買い物客でにぎわうキャンプそばの通りには、先に米国などに移り住んだ親類からの送金を受け取る銀行の窓口が並び、最新型のスマートフォンも手に入る。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が2007年から進める難民の第三国定住で、これまでに約10万人が新しい生活を始めている。

 一方、現在も約2万人が暮らすキャンプ内の住居は、竹を編んだ質素な小屋だ。両親と暮らすマンマヤさんの自宅も日中は竹の隙間(すきま)から薄い光が差し込むが、住居が密集しているため風は通らない。このキャンプで生まれ育ち、ブータンの言葉は簡単なあいさつができる程度。親の世代とはブータンに対する思いも違う。「何人かと聞かれればブータン人だと答えるけど……。帰りたいと思ったことはない」

 キャンプ内の学校で10年生を修了後、両親が野菜などを売って工面してくれた学費で、ダマクの町にある学校に進学した。昨春に優秀な成績で卒業したが、難民にはネパール国内での就労権は認められておらず、まっとうな就職先はない。「努力しても難民の私にはチャンスすらない」と話す。

 マンマヤさんと両親は、祖父母や姉(23)が先に暮らす米テキサス州での定住を希望し、UNHCRによる審査結果を待つ。友達の多くは既に第三国に旅立った。定住先で高校に通いながら英語を勉強していると電話で聞くたび、取り残されたようで焦る。米国でなら、夢である看護師になれるかもと期待するが、「20歳になってしまったから学校に入るのは無理かもしれない」と不安も感じる。

 両親は娘の将来を案じて母国への未練を断ち切った。マンマヤさんも新天地に懸けている。「チャンスはあるはず。言葉の壁なんて努力で乗り越えてみせる」【文・武内彩、写真・幾島健太郎】=つづく

 

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