2022年モルドバ報告 離散

4月にヘルソンから逃げてきたイリーナ・ヒックさん(左端)は5月20日、病院が機能していたオデッサで長女ポリーナちゃんを出産。ドイツに向かう長距離バスに乗るため、モルドバに着いた=キシナウで2022年6月2日、山田尚弘撮影
ロシアの軍事侵攻が始まった2022年2月以降、ウクライナに住む多くの人々が住む場所を追われた。西隣モルドバには7月下旬までに約54万人が逃げ込み、今も約8万人が避難生活を送る。「空襲警報の聞こえない、少しでも安全な場所に行きたかった」。幼い子どもを連れた家族が多く、中には混乱下のウクライナで出産した人もいる。
慣れない環境で力を合わせ、小さな命を必死で守る日々。「子どもには平和が戻ったウクライナでのびのびと育ってほしい」と故郷への思いを募らせる。
「女の子よ」。5月20日の正午前、ウクライナ南部のオデッサにある病院に産声が響いた。3340グラムの元気な赤ん坊。母親のイリーナ・ヒックさん(33)は、小さな手を口にあてる姿を見つめると、にっこりほほ笑んだ。
思えば苦難の連続だった。自宅のある南部のヘルソン州は、2月下旬の侵攻開始直後からロシア軍の攻撃にさらされ続けた。「自宅は無事だったが、あちこちでミサイルが着弾していた」。身重のイリーナさんは夫と2人の息子たち(9歳と11歳)の一家4人で脱出を決意した。
4月14日、ミコライウを目指して西の方向に移動を始めた。途中、別の家族らと幼稚園の教室を間借りして一夜を過ごしたが、ここでも爆発音におびえた。16日にはヘルソンから西に約140キロ離れたオデッサに到着し、知人の親類宅に身を寄せた。それからは、何日たっても砲撃はなかった。「街は安全で、何もかもが快適に思えた」。5月中旬から入院した病院は清潔で、医師らがケアをしっかりしてくれた。穏やかな気持ちを取り戻し、無事に出産した。
宿泊所生活が長引く中、プレイルームで息子のミハイル君(左)を抱いて笑顔を見せるエレーナ・チェファンさん=キシナウで2022年5月25日、山田尚弘撮影
イリーナさんによると、ヘルソン州では空襲警報が間に合わず、どこからともなくミサイルが着弾することが多かったという。それでも「出産日が近づくにつれ、息子たちの笑顔が増えた。以前から『妹がほしい』とねだってましたからね」。待望の赤ちゃんの名は、可愛らしい響きの「ポリーナ」にすると決めていた。しかし、ゆっくりと幸福感に浸る時間はなかった。生き延びるため、さらに国外に逃れることにした。
避難民の滞在施設でペットとともに暮らすベラ・ナミストゥークさん(左端)、娘の二コールさん(左から2人目)ら=キシナウで2022年5月31日、山田尚弘撮影
「こんなに可愛いんだよ!」。6月2日、経由地のモルドバで、長男のエゴール君(11)は両手に抱えたポリーナちゃんを記者に差し出し、笑顔を見せた。イリーナさんもレンズに向かって、ほおを少しゆるめた。そうしている間に、乗車予定の長距離バスが姿を現した。スッと前を向くイリーナさん。目指すのはドイツだ。そこでは政府や各種団体からの支援が期待できる、と知人から聞いていた。
ウクライナとモルドバ国境で、テントやコンテナが並ぶ一時滞在施設で支援団体の関係者に手を引かれる子どもたち。パランカには国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などが常駐し、相談や食事の提供、各地に向かうバスの運行などの支援をしている=パランカで2022年6月17日、山田尚弘撮影
約1週間後、一家は最終目的地であるドイツ北部のブラウンシュバイクに到着した。イリーナさんによると、6月10日からドイツ政府が用意したアパートで落ち着いた生活を送っている。ウクライナの同胞もたくさんおり、新たに出会った友人たちが子育てを手伝ってくれるという。
ポリーナちゃんには、何が起きても動じない強い心を持ってほしい、と強く願う。「こんなに大変な困難を乗り越えたんだから、大丈夫よ」。小さな額をなでる度に、そう思う。【山田尚弘】
◇女性が安心できる環境整備 国連人口基金
インタビューに答える国連人口基金モルドバ事務所の
ニギーナ・アバサダ代表=キシナウで
2022年6月9日、山田尚弘撮影
ウクライナ政府は18~60歳の男性の出国を原則制限していることから、国外に逃れてきた人の多くは女性や子どもだ。国連人口基金(UNFPA)は、女性らが安心して過ごせる環境の整備に加え、受け入れる側の地域社会の負担にも配慮し、地元住民も恩恵を受けられる医療施設の支援などに取り組んでいる。
力を入れているのは、オレンジ色のロゴが目印の「オレンジ・セーフスペース」と呼ばれる相談窓口の提供だ。ウクライナとモルドバの国境付近や規模の大きな避難施設を中心に、専門家を配置して避難者の悩みに耳を傾ける。妊婦や性暴力被害者らを適切な支援につなげる狙いがあるが、UNFPAモルドバ事務所のニギーナ・アバサダ代表は「相談はどのような内容でもかまわない。不安を抱える人が感情を打ち明けられる場所をつくることが大切だ」と話す。
UNFPAはモルドバにいる避難者のうち、約1500人が妊娠していると推計し、産婦人科のある7カ所の病院を対象にベッドを増やし、老朽化した備品の交換や手術室の環境整備を進める。アバサダ代表は「モルドバの場合、新しい施設を建てる必要はないが、改善が必要だ。避難者だけでなく、モルドバに住む人にとっても役に立つ支援となればいい」と期待を込める。【宮川佐知子】