2026年海外難民救援キャンペーン
帰れないひとびと ミャンマー国境から

夕食後、子どもたちとゴスペルを歌うイエディーさん(左端)とルーターヨンさん(右から2人目)=タイ・メソトで2026年5月27日、久保玲撮影
夕暮れどき、タイ北西部メソト郊外の小さな家で、家族4人が食卓を囲んでいた。
家の前に張り出した、竹で編んだ高床式の広間に、魚の缶詰、卵のスープ、野菜炒め、ご飯が並ぶ。食事の前、父親のイエディーさん(39)が短く祈った。食後はギターを抱えた。妻のルーターヨンさん(40)と、14歳と11歳の息子2人が車座になり、ゴスペルを歌った。
つてを頼って格安で借りた土地に自分たちで建てた家だ。台所は土間だが、寝室の床はコンクリートで固めた。ベッドは一つだけ。息子たちをそこに寝かせ、夫婦は床で眠る。庭にはオクラなどの野菜が育つ。本来、ここはたどり着くはずの場所ではなかった。

イエディーさんは、ミャンマー北東部シャン州の入国管理事務所で働いていた。外国人の出入国管理だけでなく、住民の身分証や世帯名簿、国境通行に関わる書類も扱っていた。
その彼が国境を越えた後、約3年間、タイで暮らすための正式な書類を持たずに過ごした。「家に閉じ込められているようだった」。警察の検問が怖く、遠くへ仕事を探しに行くことも難しい。移動手段は自転車に限られた。母国で在留書類を扱っていた男性が、今度は自分の身分を証明できない側に回った。
2021年2月、国軍がクーデターを起こすと、公務をボイコットする「市民的不服従運動」(CDM)に加わった。その理由を尋ねると、イエディーさんは短く答えた。「人の心があったからだ」
約1年間、国内で身を潜めるように暮らした後、一家は国境を目指した。ブローカーに金を払い、検問を抜けた。ところが、国境付近でタイ側当局者に見つかった。ブローカーは逃げた。幼い息子たちも走ったが、茂みで転んだ。自分だけなら逃げられたかもしれない。でも、子どもたちを置いてはいけない。「どんな結果でも受け入れよう」と決めた。
病気の次男を診療所へ連れて行きたいと訴えると、イエディーさんと次男はタイ側に残ることを認められた。妻と長男はいったんミャンマー側へ戻された。その後、逃げたブローカーが再び小舟を手配した。妻のルーターヨンさんと長男は川を渡り、サトウキビ畑を歩いた。労働者を装い、迎えのバイクに乗った。家族はようやくタイの教会で再び合流した。
最初の数日は教会に身を寄せ、やがて避難者を受け入れるセーフハウスへ移った。一時避難のつもりだったが、メソトでの暮らしは4年になる。現在は「ピンクカード」と呼ばれる一時滞在許可証を持つ。それでも、生活が安定したわけではない。イエディーさんは今、建設現場で日雇い仕事をする。日給は300バーツ(約1500円)。仕事がない日もある。「自分はここにいるべき人間ではない」。作業中、ふとそう感じるという。
クーデター前、夫婦は勤務地が離れており、一緒に暮らせるのは週末だけだった。メソトへ逃れてから、家族4人は初めて、ずっと一緒に暮らしている。クーデターでよかったことがあるとすれば、それだけだ――。イエディーさんは、そう言って苦笑いした。【メソトで小泉大士】