2026年海外難民救援キャンペーン
帰れないひとびと ミャンマー国境から

職業訓練センターで日本語を勉強する人たち=タイ・メソトで2026年6月2日、久保玲撮影
午前の授業が終わっても、チャンミーアウンさん(30)は帰らなかった。
タイ北西部メソトの職業訓練センター。1階の教室で、ユーチューブの教材を見たり、教科書を開いて習った言葉を復習したりする。2階では、別のクラスが試験を受けていた。
住んでいる労働者向け宿舎は、昼間も騒がしく、落ち着いて机に向かえない。月1500バーツ(約7500円)の部屋に3人で暮らす。本人の負担は500バーツ。週末は水の配達や建設、塗装の仕事をして、生活費を稼ぐ。
一人でいると、故郷に残した両親や、先の見えない暮らしのことを考えてしまう。勉強に集中している間は、気持ちが少し楽になるという。
かつては、ミャンマー空軍の軍曹だった。
空軍で約5年間勤務し、部隊内で文書や名簿を管理した。2021年2月のクーデター後、抗議デモの現場から送られてきた報告や映像を目にした。そこには、市民が殴られ、撃たれ、殺される様子が映っていた。軍幹部が唱える「秩序維持」とは、あまりにかけ離れた光景だった。
自身が経験していない1988年の民主化運動弾圧も、本当だったのだと感じたという。

「軍に残れば、自分も加担することになる」
兵舎を抜け出し、国内で身を隠した。22年末、メソトへ逃れた。
タイでは安定した仕事を得るのは難しい。日本で働くため、日本語を学んでいる。
同じ教室には、クーデターとその後の内戦に人生を曲げられた若者たちが通う。
ヤンゴン出身のニーニートゥーさん(28)は、医薬品関連会社で働いていた。以前から日本語を学び、日本語能力試験で初級に当たるN5に合格していた。
2025年7月、軍関係者とみられる私服姿の男たちが自宅を訪れ、本人を地区事務所に出頭させるよう求めた。家族から「帰ってくるな」と連絡を受け、職場からそのまま逃げた。
軍事政権は2024年2月、原則18~35歳の男性と18~27歳の女性を対象とする徴兵制を発動した。内戦が長期化する中、前線に送られることを恐れ、国外へ逃れる若者が相次いでいる。
ニーニートゥーさんは、国軍側でも抵抗勢力側でも戦いたくなかった。
当初暮らしたのは、アパートの屋上だった。壁らしい壁はなく、ビニールシートのようなもので囲われただけ。家賃は月700バーツ(約3500円)。大雨が降ると、枕も毛布も衣類もぬれ、パスポートまで水浸しになりかけた。
父親は既に亡くなった。故郷に残した母親を支えるため、日本で働きたい。親族の援助も1年間に限られる。7月にはバンコクで、一段上のN4の試験を受ける予定だ。
北西部チン州出身のシンリンナインさん(19)も2月、国軍兵士が自宅を訪ねてきたためにメソトへ逃れた。抵抗勢力を支援した経歴もあり、拘束を恐れたという。
本人によると、兵士らは自宅に約1週間居座り、両親は家族への危害を避けるため、計1500万チャット(約110万円)を支払った。
故郷で車のキャブレターが壊れた時、自分では直せず、日本で働いた経験のある整備士を頼ったことがある。自身も日本で自動車整備の技術を身につけ、将来は他の若者にも伝えたいと話す。
3人が通う日本語教室は、ミャンマーの民主派が設立した「国民統一政府(NUG)」の労働省が運営する職業訓練センターにあり、介護や調理も教えている。ヤンゴンで日本語学校を開く日本企業フューチャードリーム(北海道千歳市)が支援し、授業料は無料。日本への渡航費なども生徒の負担ではないという。
取材を終えるころ、ほかの生徒たちはもう帰宅していた。教室の片隅で机に向かうのは、チャンミーアウンさん一人だった。
学校が閉まる午後5時まで残る。最後の一人になる日も多い。手元の教科書には、「にほんごチャレンジかんじ」とあった。
バンコクのミャンマー大使館にパスポートの更新を申請したが、離脱兵であることを理由に一度拒否されたという。有効期限は27年1月だが、その先は見通せない。
それでも、一つずつ日本語を覚えている。もう一度、自分の人生を始めるために。【メソトで小泉大士】=おわり