2024年海外難民救援キャンペーン
流民に光りを ウガンダから【特集】

武力紛争や政治的迫害などを理由に故郷を追われ、身一つであてどなくさまよう難民たち。アフリカ最大の受け入れ国・ウガンダには紛争が続く近隣の国々から約180万人もの難民が集まっている。十分な所持金や食事、移動手段に事欠く中、どのようにしてはるばるたどり着いたのか。ある一家の道程は危険と苦難に満ちたものだった。【文・郡悠介、写真・滝川大貴】
前日に国境を越え、段ボールを手に国境付近のエレグからニュマンジのレセプションセンターに向かうスーダン難民の(左から)シャラファルディンさん、次男アダムちゃん、妻ヌーンさん、長男アブダルハカムちゃんの一家=2024年11月8日、ウガンダで撮影
土ぼこりが舞う国境の町は混沌(こんとん)とした雰囲気に包まれていた。隣国からつながる一本道には入国待ちのトラックやバスの長い車列ができ、検問所では小銃を持った軍人らが目を光らせる。 「これでやっと平和に暮らせる」。南スーダンとの国境を越えてウガンダ北端の町・エレグに到着したばかりのシャラファルディンさん(33)はホッとした表情を浮かべていた。
「これでやっと平和に暮らせる」。南スーダンとの国境を越えてウガンダ北端の町・エレグに到着したばかりのシャラファルディンさん(33)はホッとした表情を浮かべていた。
シャラハルディンさん一家のたどったルート
妻ヌーンさん(28)、長男アブダルハカムちゃん(4)、次男アダムちゃん(2)とともに祖国スーダンを脱出。約1500キロを1カ月以上かけて転々としたという。記者は2024年11月8日、エレグにある難民向け一時滞在施設で一家に出会った。「家族の命を懸けた旅だった」。道中の労苦を尋ねると、絞り出すようにウガンダに逃れた経緯を振り返り始めた。
スーダンでは2023年4月、政府軍と政府系の準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」の間で内戦が勃発。一般市民も巻き込んだ激しい戦闘が続き、1200万人以上が住まいを追われたとされる。
シャラファルディンさんもその一人。首都ハルツームの北西に接する商都・オムドゥルマンで建設作業員として働いていたが、内戦勃発後は、自宅一帯がRSFに占拠された。2024年7月ごろには、兵士が突如家に押し入ってきて「一緒に戦うか、すぐ家を出るか選べ」と脅された。
「スーダンを出よう」。身の危険を感じ、同年9月末、行く当てもないまま一家4人で自宅を出た。
町の至るところでRSFの兵士が見張り、国外逃亡が知られればどうなるか分からない。持ち物は服や金銭など最小限にとどめ、近場への外出を装った。兵士に行き先をただされたが、「20区画先の知人に会いに行くだけだ」ととぼけた。
近くで借りたロバの荷車で1時間ほど移動し、国外行きのバス停にたどり着いた。しかし、ここでもRSFの兵士がうろつき、バスには乗れなかった。一体どうすれば――。
「私たちに紛れなさい」。ピンチを救ってくれたのは母国に帰ろうとする南スーダン難民だった。RSFは南スーダン難民の帰国には寛容で、ウガンダとの間を往来する民間バスは運行が続いていた。事情を察した南スーダン難民たちが一家を一団の真ん中に入れてかくまい、バスに乗せてくれた。オムドゥルマンを離れ、4日間かけて国境地帯のジョダにたどり着いた。
ここから一家は異国の地を転々とした。10月上旬、南スーダンに入って国境付近で数日滞在した後、空港がある北東部・マバンへ陸路で丸一日かけて移動。アダムちゃんが体調を崩して入院するアクシデントがあったが、1週間あまりで何とか回復した。マバンでは、貨物航空機の隙間(すきま)に無料で乗せてくれる親切なパイロットを見つけ、首都ジュバに飛んだ。
「これで安心だ」。そう思ったのもつかの間。難民キャンプに向かったが、なぜか難民登録を受け付けておらず、キャンプにすら入れない。食べ物もない中、使われていない建物の一室で1~2週間、他の大勢のスーダン難民らと雨風をしのいだ。先行きを案じていると、居合わせた難民が荷物をまとめてどこかへ行こうとしていた。「どこへ行くんだ」と尋ねると、難民は答えた。「ウガンダだよ」
手持ちの金はほぼ尽きていたが、運良くウガンダとの国境の町・ニムレまで無料で乗せてくれるというタクシー運転手に出会った。
11月7日昼にジュバを出発し、その夜にニムレに到着。一本道を歩いて国境を越え、ウガンダのエレグに入ったという。「家族の服を売って食費を賄ったが、本来なら全く足りていなかった。大勢の人の善意でここまで来ることができた」と感謝する。
エレグを経て、一家が身を寄せたニュマンジの一時滞在施設では、アダムちゃんが世界食糧計画(WFP)から配給された湯気の立つご飯をほおばっていた。シャラファルディンさんは「温かいご飯なんていつぶりだろう。昨夜は久しぶりに時間を忘れてゆっくり眠れた」とほほ笑んだ。今後の見通しは立っていないが、「まずは仕事を見つけてお金を稼ぎ、子どもたちが安心して学校に通えるように生活を立て直したい」と前を見据えた。