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《一般部門》最優秀賞・新規就農大賞、農林水産大臣賞、全国農業協同組合中央会会長賞

「ヤギが教えてくれた循環農業」
後藤宝さん(47)=福井県池田町、農業



 「脱サラの新規就農者」で始まる私達の農業。神戸出身の私達は、転勤先の九州で自然豊かな環境に心動かされ、「サラリーマンより自然の中で暮らす生活がしたい」というあこがれだけで、「農林業従事者募集」に引き寄せられ、1993(平成5)年にこの福井県池田町へやって来ました。当時長男はまだ1歳前、長女がおなかにいる状態で、あまりにも気楽と言うか無謀と言うべきか、知らぬが仏で飛び込んだ農業の世界でした。

 池田町は水稲中心の農業で、とても自然豊かなわりには専業農業者というと両手で余るくらいしかいないのが現状でした。

 「ああ、だから農業従事者募集だったんだ...」と思ったのが移住してしばらくしてからでした。「農業だけで食えるんやったら、外から人呼ばんでもワシらがやっとるわ」と町の人に笑われ、あ然としたのもつかの間、何しろ私達はその道を選んだのですからもう、やるしかなかったのです。

 まずは慣例に習って水稲を、町が貸してくれた約10アールの田んぼで作ってみました。おなかの大きい私も「一度はやってみなあかん」と手植えをし、フラフラになりました。秋はさすがに臨月なので、はさがけまではしませんでしたが、それでも初めて食べた自分で作ったお米は、おいしくて感慨深いものでした。

 自分達と親兄弟に送る分以外は、JAに出荷したことも、生産者になった気分でうれしかったものです。なのに、他用途米分として控除されたのには大変不満でしたが...。

 また、その年には福井の農業試験場に主人が勉強に通い、池田町特産のミディトマトや池田にはなかったアールスメロンの栽培を習いました。実際にやってみようということで農林公社のハウスを借りて作り、とても姿の良い、そして食べたことがないような甘いメロンができたときには、「これだ!」と思いました。

 早速自分達でハウスを建てるべく、土地の賃借と資金の調達には苦労しました。土地は、長年の遊休農地を貸してくださった方がいて、そこを主人がスコップと鍬(くわ)で耕し(当時我が家の農機具はそれだけでした)水田にしたら大変喜ばれ、ようがんばったということで私達にとってハウスを建てるのには絶好の土地を貸してもらえることになりました。今でもこの土地でよかったなぁと思っています。

 町外出身の人間にはなかなか資金も貸してくれなかったのですが、当時の役場のバックアップで、農業近代化資金を借りることができました。ようやく私達の専業農家への道、第一歩をクリアしました。

 豪雪地帯の池田で、初めて冬でもビニールを巻くらないハウスを建てました。池田中の人が、今につぶれるぞと思っていたらしいのですが、雪の多い年は、朝から夜中まで子供も家においたまま雪かきをし、強風でビニールが裂けたときもやはり夜中までかかって修繕をし、いままでハウスを一度もつぶしたことはありません。

 そんなハウスで栽培したメロンは、完熟してからの収穫で、一番おいしいときにお客様に送る産直を始めました。私が以前都会に住んでいたときを思い出して、こんなメロンが食べたかったなぁというメロンを、直接お客様の声が聞こえる販売でやりたかったのです。ミディトマトはJAにも出荷しました。収量の低い品種なので、あまり儲けはありませんでしたが、それでもやはり生産農家として出荷する喜びがありました。水稲も、農林公社のあっ旋でどんどん増え、誰もがしたくない田んぼで、しかもあちこち分散していたこともあり、転作も含めて約10ヘクタールになりました。

 2001年には、完全に専業農家で認定農業者になりました。そんなある日、子供がハウスへ来て「このトマト食べていい?」と聞いてきました。「昨日農薬まいたからまだダメ」という自分に対し急に疑問を感じました。「食べられないトマトを作っているのか?」と。「自然の中で暮らしたいと思っていたのに、何のために農業をしているんだろう?」と。そんなことを夫婦で話して、思い立った私達は農薬をかけることをやめました。

 肥料はほぼ最初から「有機肥料100%」を購入して試行錯誤しながら「土づくり」をしていましたので、農薬をやめたらこれで完璧に有機農業だと思っていました。

 中山間地での稲作は、平野部とは勝負になりません。まして、有機肥料のみの栽培では、お米の収量も減り、収入が減りました。天候に非常に左右されやすく、メロンも一度病気が発生すると立ち直れません。どんなに収量が落ち込んでも仕事量が減るわけでもなく、減るのは収入だけでした。そして、それは生活もままならない状態に落ち込みました。どうするべきかと、とても悩みました。

 「『土作り』って何なの?」「安心・安全な野菜ってなんなの?」「何のために農業をするの?」「子供達をちゃんと育てられるの?」。いろんな不安と焦りで、押しつぶされそうになりました。

 そんなある日、子供とDVDを見ていました。「赤毛のアン」と「アルプスの少女ハイジ」でした。こんなことって、みなさんは笑うかもしれませんが、画面に釘付けになったのは私の方です。「赤毛のアン」では、里親のマシューとマリラの生活です。家畜を飼い、フンを肥料に利用する。家畜のためのえさも含め蕪(かぶ)の種をまく。とうもろこし・じゃがいも・麦等自分達の生活に必要な全てを作る。余剰分は売って砂糖や布に換える、これぞ農民の暮らしではないか! と。

 また「ハイジ」は、おじいさんやペーターがヤギを飼育しミルクでチーズを作る山の生活。ヤギには草を食べさせるアルプスの自然に即した無理と無駄の無い生活。目から鱗(うろこ)でした。こんなところにヒントがあった!

 私達に置き換えて考えてみました。池田は90%が山林の中山間地で、水も空気もきれいです。雑草は豊富にあり、また田んぼの畦畔(けいはん)は大きく草刈が大変なところばかりです。山の下草は伸び放題で、イノシシの格好の隠れ場所にもなっています。ここにヤギを放そう、と思いました。中山間地という不利な条件は、ヤギが解決してくれます。山や草を大いに利用して、「自然型の循環農業」をしようと決めました。

 今はもう「土作り」なんていいません。土は作るものではなくそこにあるのです。ヤギフンと籾ガラの堆肥だけで、いちごもお米も肥料はそれだけです。なのに、購入有機肥料より最終的には良くておいしいものができます。

 ヤギの小屋として、3年前の大雪で、小さなハウスが変形したので、使えそうな部品を寄せ集めてヤギハウスにしました。敷料には、家で籾(もみ)すりの時にでる大量の籾ガラを利用しました。掃除したら、それはヤギのフン混じりの絶好の堆肥です。そして、ヤギの飼育を始めながら、勉強のために長野県の牧場や実際に飼っているところへ、何度も足を運びました。人工授精も勉強しました。

 ヤギは2頭から始めました。そのうち1頭は春に子ヤギを産み、お乳を出しました。初めての出産の立会いと、搾乳、そして子ヤギの世話......。子供も巻き込んで、家族でてんやわんやのヤギ中心の生活です。「命」を感じる初めての感動、私達家族だけでなく誰か他の人にも味わってもらいたい感動でした。

 今ではヤギは30頭、春から秋まで1日2回の搾乳は、やはり家族で手分けして手絞りしています。そのほうがヤギにとってもストレスがなく、私からみてもヤギの健康状態を手で触って確認できるのです。

 また、ヤギを飼うことにより、季節の移り変わりが、目に見えて分かるようになりました。というのも、池田の自然の草を食べさせるために毎日放牧へ出すからです。ヤギは自分にとって今一番栄養のある草を選んで食べます。「旬」の草をよく知っています。山や河原の坂道でおいしい草を食べたヤギのミルクは、自然の恵みそのものです。フランスのAOCチーズのミルクに負けるとも劣らない、池田の自然のミルクだと自負しています。

 それをどうしてもチーズにしたいという思いで、自家でフランスのチーズの歴史をひもといて作ったりしていましたが、本格的にチーズ作りをしてみようと、私は夏休みに子供3人連れて、テントを積み、車で北海道へ乗り込みました。いろいろなチーズ工房を転々と回り、チーズ製造技術を教わりました。全部牛のミルクのチーズでしたが、みなさん大変親切に教えてくださいました。

 私のチーズ作りに関しての技術はまだまだですが、ヤギの世話をして搾乳をし、特別な機械があるわけでもなく、鍋でミルクからチーズになるまで全工程を1人でしています。

 チーズ工房は、福井県では初めてということで保健所の方と試行錯誤しながら、作り上げました。「乳等省令」が牛中心に書いてあるので、なかなかヤギにそぐわないことも多かったのですが、北海道で見せていただいた工房を頭に置き建てました。

 そういうチーズですが、これでも東京や大阪など、有名ホテルやレストランの料理長に気に入っていただけるようにもなりました。

 生まれた子ヤギの中には雄ヤギもいます。これをどうするかということで、去勢し、ヤギ肉として出荷するようになりました。沖縄料理だけではなく、高級なフレンチやイタリアンの料理店でチーズとともにご利用いただけるようになりました。福井のお肉屋さんの強力なバックアップあってのことです。

 チーズにしても肉にしても、産直のメロンやいちごが、池田から大都会へ発信されることは、今までに無い感動です。

 私達のファームのモットーは、たくさん売って儲けるのではなく、おいしいものを作って届けるということです。

 ヤギを導入してからの生活は、ガラッと変わりました。今まで、田んぼやハウスの往復だけで黙々と朝から晩まで働いていたのですが、それは別に苦でもありませんでした。

 でも今は、春には子ヤギがたくさん生まれ、無農薬のいちごもあって農場は毎日のように人が訪れるようになりました。収穫して洗わずに食べられる甘いいちごと可愛い子ヤギは人気者です。夏休みには、たくさんの親子連れが来られます。搾乳体験もできるようにしました。それは、学校の体験授業にも利用されるようになりました。農業関係の学生が研修に来たりもします。

 子供達は、目を輝かせてヤギの話を聞いてくれます。お母さんが子ヤギを産むようすからお乳の話、食べる草の話...。子供からもどんどん質問が飛んできます。

 私が初めてヤギを世話したときの「命」の感動を、そのまま伝える場ができました。最近では、赤ちゃんを抱っこしたお母さんから、「いつからお乳が出るんですか?」と聞かれることもあります。「赤ちゃんヤギを産んだときからです」と答えると、そのお母さんもハッと気づきます。そうです、みんな同じ哺乳類ですから...。

 スーパーに並んでいる箱に入った牛乳は年中ありますから、もう工業製品のように感じてしまうのでしょう。命とはほど遠いところに皆の意識があり、私のほうがびっくりしてしまいます。こんな世の中だからこそ、私達のような小さな農家でも大きな感動をしてもらえるかもしれない農業をしていかなければなりません。

 今まで、経済中心になっていた農業を、少し後戻りかもしれませんが、ゆっくりした太陽の恵みを感じる命の連鎖と農業を結び付けたいと思います。

 このことが、次の世代に繋ぐ農業だと信じて...。

ごとう・たから
兵庫県西宮市生まれ。今はTAKARAチーズ工房(http://www.yagi-takara.com/ 電話兼ファクス=0778・44・7626)を営む。