第42回毎日農業記録賞《一般部門》最優秀賞・中央審査委員長賞


夢とともに歩んできた人生

豊田 昌昭さん=栃木県益子町

夢とともに歩んできた人生 豊田 昌昭さん=栃木県益子町

農協職員から精密機械製造会社を立ち上げるまで

今日も我が社のジュース搾り施設には、地域の若い生産者の真剣な顔があります。自分が丹精込めて生産したいちごを使って、オリジナルのいちごジュースの開発に余念がない様子です。

私が生まれ育った栃木県の益子町は、焼き物の町として知られています。私が就農した昭和三十年頃には、葉タバコの生産が盛んで、貧しいながらも地域のみんなが農業に携わって活気に満ちあふれていました。しかし、高度経済成長の波はここ益子町にも押し寄せ、若い人たちが都会へと出ていくようになり、徐々に農業人口が減少していきました。

就農して数年後の昭和三十八年、私は知人からの誘いもあり農協に就職しました。当時の我が家は零細農家で生活するのがやっとの状態であり、それを見かねた農協職員が誘ってくれたのでした。農協では購買課に所属し、農業機械はもちろん、当時普及し始めたテレビ、洗濯機等の販売から簡単な電気工事、修繕までと、機械に関する全てのことを担当しました。毎年、田植え時期になると、朝早くから夕方まで、耕運機の修理であちこちの水田を飛び回り、夜になるとテレビなどの家電製品を修理するという毎日で、子供たちの顔も見られませんでした。

心配そうに見守っていた農家の人の顔が、機械が直ると一瞬で笑顔に変わることが、自分にとっての一番の励みでした。また、機械修理技術の向上を目的として農協の仲間や知人と立ち上げた研究会で、多くの朋友を得たことも今では宝となっています。

忙しくもあり充実した日々を過ごしていたある日、米俵運搬で腰を痛めて働けなくなってしまいました。その時、「これまでの経験を生かして、精密機械部品の製造をしてみないか」との話しを朋友から受けた私は、元来機械いじりが好きだったこともあり、すぐに決断して農協を退職しました。そして、昭和四十八年に有限会社トヨタ精機を立ち上げ、地域の若い人たちと供に、時計部品を製造する事業を始めました。その後、ハードディスク等の電子部品等の製造へと事業を拡大していきました。

私は地域の人たちがいつも元気で笑いながら働くことができる場を作ることが夢でしたので、会社設立は、その第一歩でもありました。しかし、オイルショックの影響を受け、社員たちの給料の支払いさえも滞るような悪戦苦闘の日々が続きました。慣れない営業のため、人づてに飛び込んだ営業先から相手にされなかったり、取引先が成立した相手が倒産するなど、何度も存亡の危機が会社を襲いました。

そんなある日、農協時代の知人である若者が、いちご栽培を始めて十年経ってようやく満足のいくものができたと、立派ないちごを持ってきてくれたのです。そのいちごを見て「石の上にも三年」ならぬ、十年頑張れば夢がかなうと信じて、耐えることができました。

苦しい経営でしたが、楽しく明るい職場づくりを心がけました。社員たちとの絆は日増しに深まり、一人一人が自分たちの生活と会社を守るため、一生懸命働いてくれました。さらに、農協時代の仲間が紹介してくれた大手企業との取引にも成功しました。苦闘の十年間でしたが、何とか乗り切ることができ、地域の仲間の力を借りて、私の夢が一歩前進できたのです。

定年退職者再雇用による農業への挑戦

その後、着実に規模拡大もできたことから、会社の経営状態も安定し、地域の人たちが安定して勤められる職場となりました。しかし、当初から働いてくれていた社員が、退職時期を迎えつつあることが気がかりでした。

今の時代は定年退職後も70歳くらいまではまだまだ働けます。我が社も含め定年退職者の働く場所が必要とされている状況でした。精密機械の部品作りでは、定年を延長しても視力の衰えなどでつらい思いをしますが、体を動かす農作業は、健康にも良いのではないかと考えたのです。

そこで、私は、次のステップに向かって会社の事業を新たに立ち上げることにしました。最初に、農協から委託され観光りんご園の管理を始め、その後、工場近くにブルーベリー園を開園し、果樹栽培を本格化させました。ブルーベリーは、眼精疲労や視力回復効果が期待できると言われています。特にブルーベリーは、安全で安心なものを提供したいとの思いから、有機JAS認証を受けることにしました。現在、果樹園では、退職した社員たちが作業に汗を流しており、近隣の小学校の摘み取り体験を受け入れたり、口コミ取引先も拡大し、果実の販売も順調です。

しかし、今後増加する退職者の再雇用を考えると、年間を通じた作業の確保が必要です。一方、自分や地域の農業者が精魂込めて生産した農産物を、余すことなく無駄にしたくないという思いも強くありました。

規格外等の農産物を加工し、付加価値を付けて販売することで、農家の所得向上を図る6次産業化の動きがありますが、農家個人が取り組むには、設備投資の資金や加工技術の習得等、ハードルが高いのが現状です。 そこで、「みんなが使える加工施設を作ろう」という新たな夢が膨らんだのです。地域の誰もが、気軽に農産物加工ができる、そこに相談すれば自分のアイデアを形にできる、さらに定年退職者の就労の場となる、そんな場所を夢見て、会社に食品部を創設しました。

みんなが集う6次産業化研究拠点へ

最初に取り組んだのが、ジャムの製造でした。食品製造に関して全くの素人であった私は、精密機械製造事業で世話になっていた産業技術センターに相談したところ、近隣の食品関連企業の技術指導者を紹介していただきました。その先生の御指導の下、一から勉強を始めました。加工技術、衛生管理など必要なことを何度も教えていただきながら、製造に必要な機械や施設を整備していきました。

次に取り組んだのは生キャラメルの製造です。町から、牛乳を使った商品開発に取り組んで欲しいと相談を受けたのがきっかけでした。研究を重ねた結果、キャラメルはできたのですが、うまく切断することができせん。キャラメルメーカーにも教えを請いましたが、企業秘密で教えてもらえませんでした。それならばと、これまで培ってきた精密機械製造技術をフル活用し、切断用機械の自作に挑戦。試行錯誤の末、成功したのです。「やればできる」という自信が確信へと変わりました。

一方、ジャムやキャラメルの売り込みでデパートや直売所などを回ると、どこでも同じような賞品ばかりが目につきました。「消費者は何を求めているのか」「こんな商品でいいのだろうか」と自問自答する毎日でした。そして、「俺は何のために有機農法でブルーベリーを栽培しているのか」と振り返った時、答えが出たのです。原点に戻り、自分たちが精魂込めて生産しているブルーベリーやりんごの安全で安心なおいしさを、そのまま商品にすればいいのだと。

当時は県内でも簡単に果実や野菜のジュースを製造できる施設がなく、芳賀地域の果実生産者も県外の施設で製造していました。そこで、果実のフレッシュさを感じられるジュースを開発するための機械設備を、一部自作交えて完成させることができました。力作のりんごすり潰し機は、本場長野県から引き合いが来るほどで、自慢の機械となりました。

地域の未来へ向かって夢を繋ぐ

今、地域の若い農業者を中心に、「自分たちが生産した農産物を有効に活用したい」「多くの人に届けたい」という思いから、6次産業化に挑戦する人が増えています。彼らは、私の加工施設を利用して日々研究を続けています。つい最近、若い生産者たちと一緒になって、農産物加工や販売などを行っていくための研究組織を立ち上げました。この研究組織を見ていると、五十年前に立ち上げた機械修理技術研究会を思い起こしてなりません。主体は若者に任せ、私は顧問的立場で応援していこうと思っています。

一部機械を自作していることもあり、加工施設の利用料金は、生産者自らが加工を行うという前提で、比較的安く設定しています。また、他の加工施設と比較して少量多品目の加工に対応できることから、利用者がどんどん増えています。現在では、ブルーベリーやりんごだけでなく、芳賀地域の特産品であるいちごの他、トマトやニンジン、さらにはパッションフルーツの農家からも利用の実績があります。従業員も、それらの要望に応えるべく、食品加工技術と機械の開発に一丸となって取り組んでくれています。

二年後にはこの地域に道の駅ができ、農産物の直売も始まるようです。時を同じくして当地域の圃場整備計画も検討されつつあり、地域の農業の在り方をみんなが考え始めています。

いよいよ、私が夢見てきた活気に満ちた地域へと、新たに生まれ変わるチャンス到来です。

生涯現役の気概で元気に働く高齢者と、加工施設に集う若い農業者の情熱が結びついて、大きなエネルギーとになろうとしています。

地域活性化という爆発を引き起こすエネルギーの高まりが、私の加工施設から広がってゆくことを期待して、更なる夢を追い続けて行きたいと思います。

とよた・まさあき

1938年、栃木県益子町生まれ。幼い頃から機械いじりが得意で、農協の家電販売員時代には「修理までできる」と人気を呼び、トップの営業成績を誇った。今も工場の効率化のため機器改造に余念がない。好物は近所のカフェのカツサンド。悩んだ時にはコーヒーを片手にほおばる。

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