第43回毎日農業記録賞《一般部門》最優秀賞・中央審査委員長賞
中山間地の百姓小娘、パン屋になる
富山県魚津市 小林 由紀子
「ママ!起きよう!」「おにぎり作ったから」「もう車に乗っとるよ!」 小学校3年と4年生、年子の娘に急かされて車を走らせると、裏手の山の向こうはパープルスカイ。眼下には北陸新幹線、富山湾越しに見える能登半島。季節の移ろいを感じながら、私はお店へと向かう。お店から登校する娘達を見送ると、次から次へとパンを焼いていく。ちょっとご飯の香り。「パンの形をしたご飯を食べる。」私は米粉パン専門のパン屋さんです。
こんな田舎は嫌だ!と思っていたのに。
私が住む魚津市は、富山県東部に位置し、人口約4万3千人、世帯数約1万6千世帯、うち920戸が農業を営んでいる。市街地から車で約30分、海抜200mの中山間地にある私の実家もその1軒。村の中には、信号もコンビニもない。かつては農協の支店と、その隣に給油所もあったけど、今はない。私が通っていた小学校は来年廃校し、市内で一番大きな小学校と合併。村にあったものが、一つまた一つと姿を消していく、10年後どうなっているのかと不安を感じずにはいられない。自宅裏を流れる片貝川は、高低差2500mを25kmで流れ落ち、田んぼは水はけが悪く、山陰は4月まで雪が融けず、決して営農条件が良い地域ではない。それでも、片貝川の冷たい水と、昼夜の寒暖の激しさが、お米をより一層美味しくしてくれていると思う。
子供の頃の私は、母の車にオマルを持参して田んぼへ通っていた。ゴールデンウィークに遊びに行きたいと言うと、父が連れていってくれたのは田んぼ。蛙を捕まえて遊んだ記憶ばかり。少女時代は、母について田に入り、苗の補植、わけどり(ヒエ取り)の手伝い、畦の草刈り。娘時代、小遣いが欲しいと言うと、夏の暑い時に、父と一緒に田んぼの草刈りに行きなさいと一言。短いスカートにルーズソックス、茶髪にピアスが流行った時代。田んぼに行くにもオシャレに気が抜けない年頃。「おい行くぞ!」という父の声。私の姿を見た父は、自分だけ軽トラで草刈りに行ってしまった。仕方がないので、自転車で草刈機を担いで田んぼに向かった私。畦一本刈り終る頃には腕がプルプルしすぎて、ポケベルも鳴らせなかった。
「こんな田舎は嫌だ。将来は、絶対に農業に関わりたくない!」 そう強く思っていたのに…。
もったいない!米粉との出会い。
両親の言う事を聞かず家を飛び出した私。都会での生活は毎日が新鮮でした。23歳で結婚し、夫の故郷沖縄で長女を出産後、体調を崩し、やはり身土不二かと、私たち夫婦は魚津で暮らすことを選び、平成17年夏、実家に戻りました。しかし、その暮らしは2年と続かず、夫は田舎は嫌だと出ていった。生まれたばかりの次女を抱え、私はすぐにハンコを押すことができませんでした。1歳の次女をおんぶし、2歳の長女の手を引き、父の経営するMK農産で雇用して貰いました。今まで好き勝手に生きてきた分、一生懸命苗を運びました。
平成19年の秋、収穫の時期。乾燥・調製作業をしていると、篩下の米の多さにビックリした。今まで1.85ミリだった選別機の篩目が1.9ミリに大きくなり、きれいなお米も相当量屑米になったのです。
「もったいない。何かに使えないだろうか。」
中国の餃子事件を発端に、食の安全・安心が見直された時でした。小麦の高騰で、スーパーの店頭には外国産の米粉が並んでいます。我が家のお米を米粉にすれば。そんな思いが、私と米粉の出会いでした。
最初はケーキやお菓子を毎日作っていたのですが、そうそうは食べられません。私は親に「どうして大して儲からないのに、うちは米を作るのか?」と聞きました。そしたら、毎日の主食として欠かせない需要があるからだとの返事。だったら私も毎日需要のあるものを作ったらいい。ご飯の代わりになるもの。そうだ、パンを作ろう。それからは毎日米粉のパンを焼く日々。お菓子の様にうまくはいかず、作ってはこっそり犬に食べさせる…。ホームメイド協会パン課に入学、師範免許を取得、世界共通パンシェルジュ検定に合格しマイスターを取得。それでも、小麦粉を100%米粉に置き換えて教えてくれる所はどこにも無く、米粉の挽き方、水の量、温度、焼き時間。一つ一つ自分で編み出すしかありません。
シングルマザーとして二人の娘を育てていくには、いっその事、勤めに出た方が良いとわかっていた。けれど、一見派手そうに見られがちの私は、結構根暗な所がある。中学生の頃、登校拒否で随分と周りを困らせたくらい、人見知りで人付き合いが苦手。だから一人で何かしているとすごく楽で落ち着く。私は、パン作りに没頭していきました。
このままでは終われない。商品にしたい。
少しできるとすごくできた気になり、商品にしたい。それには加工場が要る。だけど、お金もない。普及員さんに相談しても、今の様に「6次産業化」なんて言葉も耳にしない時代。ちょうどいい補助金無いし融資もね…と心許ない。そうだ、家の空部屋を改装しよう。ここでの最大の難関は父―。
「一つ百円程のパンを売っていくらの利益になるのだ!」の一言。
「駄目でも車一台買ったと思えばいいじゃない、弟が結婚したら加工場は二世帯の台所にも使えるし。」と説得してくれたのは母でした。それが、平成20年の秋。
そんな頃、日本農業新聞で米粉パンの一日講習会の案内記事を目にしました。1月の早朝、凍った山道を駅まで父に送ってもらい、東京へ。初めて離れる娘たちとの長い時間。不安とわくわく感との第一歩。この日の一歩がなければ、今の私はなかったろうと思います。後日、この国内産米粉促進ネットワークのメンバーの方が、遠方より足を運んで下さいました。レシピを全面見直し、2月よりパンを製造、販売しました。店舗を持たない私に、いろんな方が「うちに売りに来られよ。」と声をかけて下さいました。農協の支店、市役所、企業など、お昼時に販売に行きました。「美味しいよ」と口コミで拡がり注目を集め、これまでは相手にしてもらえなかった行政も協力してくれるようになりました。メディアにも多数取り上げていただき、製造が間に合わなくなりました。
お店が欲しい。今しかない!
パンを販売し始めて半年、自宅の近くにお店を持つことを決意しました。10月、山間の小さなお店をオープン。遠方からも買いに来て下さいました。もっと技術を高めたいという想いから、国策の後押しもあって開設された東京での米粉パン専門コースを、平成22年の1月から第1期生として受講、米粉指導員の資格も取得。お店を休むのは勿体ないけど、何より上京するのが楽しかった。人よりも先に教室に入り、講師の方といろんな話をしながら、研修の準備を手伝わせてもらいました。
思いがけない提案「街に出てこないか」
店を持って半年、生活にも慣れてきた頃、「福祉施設と併設でパン屋をやりませんか。」とお誘いを受け、いずれは街にもと思っていた私は、舞い上がる思いでした。しかし現実は、自宅や店舗の改装、農機具の支払い。どこにお金があるのだろう。商工会議所会頭からの言葉に、家族も迷い…。だけど、いつなら大丈夫というタイミングはあるのか?自問自答。思いがけない幸運に恵まれ、人生の信号が同時にすべて青になる事はない。全ての条件が揃う時なんてない。何かを始めるのに早すぎる事なんてない。私は27歳だった。37歳だったらいいのか?無知だからできた。経験があれば恐れてできなかっただろう。チャンスは待っててくれないし、自分でつかむものだと思った。
商工会議所指導課長の指導を受けながら、地域資源ファンド農商工連携事業に認定され、どうにか銀行から1千万円の融資が決まり、平成23年3月、街なかに2店舗目「米工房Jasmine」をオープンすることになりました。その矢先の東日本大震災。物資が止まり、大自然の成せるわざに、努力だけじゃどうしようもないこともある。その月は毎日、コンサルタントの先生に入ってもらい、スタッフと共にレシピを作り、パンを沢山焼いた。そして福祉施設の支援物資と一緒に東北へ送りました。お店がオープンしたのは、7日後の事でした。
人のつながりを得て繋ぐ想い
子育てしながらのお店経営は、順風満帆とはいきませんが、ジャスミンは、日頃から本当に多くの方々の協力があって、地域の皆さんと作り上げてきた店です。旬の野菜や果物が届くたび新作してきたレシピはいつの間にか300種類を超えました。米粉パンなら食べられる、と食物アレルギーの子供を持つお母さん方も増えてきました。卵やバター、乳製品を使わないパンや米粉のカスタード。誕生日ケーキのデコレーションは豆乳クリーム。同じ子を持つ母として、その子が安心して食べられるレシピを一つ一つ考えます。公民館や学校、児童会等での米粉パン作りは、子供も大人もみな笑顔です。
農政局の依頼で熊本や東京での事例発表。視察受入れ、新聞のコラム連載、商品開発のコラボ企画、新品種米の試験栽培、食品衛生指導員…。頼まれ事は試され事、と無理してでも引き受けます。苦しかった借金返済も今年で終わり。そんな経験が私を成長させてくれています。
弟の就農を機に家族経営協定を見直し、自家産の米を私が加工して販売するスタイルを確立、6次産業化事業計画の認定も受けました。富山県青年農業者協議会の役員や富山県農山村振興対策委員も務め、平成27年2月には農産加工部門で富山県農業振興賞を受賞。石井県知事から賞状をいただいたとき、自分が認められたようで本当に嬉しかったです。
今年の夏には、地元で”魚津のパン屋さん”という映画の撮影があり、お店や商品のパンを使っていただきました。私も映画にキャストとして出演させていただき、なんだか自分の人生と重ね合わせた気持ちで、協力させていただいております。米粉パンのおかげで、私の人生がすごく豊かになりました。私を支えてくれる多くの方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。
仕事を終え、山あいの家に向かう帰路、くねくねと曲がったカーブをいくつも通過し山を下ると、道路の両側に沢山の田が並ぶのが見える。季節季節の土の香り。ふと、この道に人生を感じたりする。上がったり下がったり、くねくねと進んで行くけれど、この山の様にどっしりと構え、自分の信念だけはまっすぐでありたい。そんな背中を見て育つ娘達の時代にも、この故郷を継承していきたい。
自宅からは山はあまり綺麗に見えない。近すぎてよく見えない。人生においても一歩引いてみて、よく見渡してみる時期も必要だろう。一心不乱に進んで来た私ですが、自分を俯瞰して見つめ直し、それでも、少しずつ変化し続けられる自分でありたい。
私達が一生懸命に作ったパンを、皆さんからの「美味しかったよ。」という喜びのエネルギーを明日に、そして日本の農業に繋げていきたいと思います。決して良い事ばかりではありませんが、いろんな経験をバネに、そして自分の栄養として、これからまた新しい事に挑戦していきます。皆さん、ぜひ楽しみにしていて下さい。
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