第49回毎日農業記録賞《一般部門》最優秀賞・中央審査委員長賞


農業観をかえてくれた人たちと、私の選んだ道

栃木県鹿沼市 田島 穣(60)

収穫したかぶを手に笑顔の田島穣さん=栃木県鹿沼市で、鴨田玲奈撮影

◇たじま・みのる
 1961年、栃木県鹿沼市生まれ。妻正子さん(59)は県農業短期大学校(現農業大学校)の同級生。3人姉弟の末っ子で長男の嘉存さん(31)が農業を継ぐ。里芋やかぶなど年間約60種の野菜を作り、週1回市内への配達も行う。食べるとほっとして素直になれるような野菜を作ることがモットー。

 子供の頃から私は生き物と自然が大好きでした。小鳥や犬を飼い、クワガタ捕りや魚釣りをして、一年中外で遊び回っていました。明日が来るのが楽しみでした。

農家には、なりたくない

 農家の長男である私は、農業高校に通っていましたが、「農業だけは継ぎたくない」と思っていました。「何とか農業から逃れたい。そのために大学に進学したい」と、夢中で受験勉強をしました。しかし、受験は失敗。大学進学の道はなくなりました。その時学んだことが私の農業の基礎になっているとは知らず、失望していました。

 県立農業短大に進みましたが、いつも体調が優れず、毎日毎日だるくて眠い日が続きました。日本は高度成長期で経済がどんどん発展する一方、川や空、田畑はどんどん汚れていました。大量に使用される化学物質の影響で、体に異変が生じているのではないかと思っていました。

 そんな時、書店の棚に梁瀬義亮さんの「生命の医と生命の農を求めて」という本を見つけました。私は農にコンプレックスを持っていたので、「なぜ医と農が結びつくのだろう」と不思議に思って開いてみました。するとそこには、自分が今まで学んでこなかった、農薬の毒性による健康被害が書かれていました。

 またある時、日本有機農業研究会の大平勝さんの講演会で「作る人は、食べる人のことを第一に考えて作る。食べる人は、作る人の生活を考えておつき合いする。それが提携の基本です」と聞きました。一年を通して、季節の有機野菜を消費者に届ける、大平さんの思いや農業スタイルに驚きました。それまで農家は、農業所得を増やすため、収量を上げるか、めずらしい物を作るしかないと思っていました。大平さんが掲げる「心が結ぶ流通革命」や「脱炭素型農業」の話を聞いたことで、現代農業の問題解決の糸口を見つけた気がしました。今までこわばっていた体から、スーッと力が抜けていきました。「これだ。自分もやってみたい!」。食べてくれる人と、作る人との関係を目指す農業を志した瞬間でした。

 昭和五十七年、農業短大卒業と同時に家で就農。二十歳。中学時代の恩師に、「僕は、無農薬無化学肥料で作った季節の野菜をパックにして、繰り返し使えるコンテナを使って宅配がしてみたいです」と夢を語りました。先生は「田島は、パイオニアになるんだな。私にできることなら手伝うから」と、庭先で週二回、先生はお母さんと二人で、野菜を売ってくれました。だんだんお客さん、リピーターが増え始めました。それから半年後、宅配の話が進んでいきました。お客さんの笑顔がいっぱいになり、楽しくてうれしくて、誇らしい日々が続きました。

 まもなく平成に年号が変わろうとする頃、私の野菜は作ったら作っただけ、飛ぶように売れました。若くて仕事も無理ができ、経験も積んだことで自信がありました。「もっと大きくしたい」と、欲が出ました。数人の友達に配達・営業を任せ、私は野菜を作ることに専念しました。

 すると次第に今までと違ってきたのです。「失敗はできない」、「必ず作らなければ」、「友達に賃金を払わなければ」。プレッシャーと作業に追われました。もちろん、食べてくれる人たちの笑顔も見られなくなり、会話することも無くなりました。そしていつの間にか、食べてくれる人たちのことを思って作物が作れなくなっていました。仕事が楽しくなくなり、人間関係で悩み、頭も心も壊れてしまい、とうとう入院しました。「野菜は自分にしか作れない。食べてくれる人の期待を裏切ってしまった」。全てが終わった気がしました。

 「自分は何がしたかったのだろう。何が欲しかったのだろう?」。ゆっくり考えました。「大好きな妻と子供たちと一緒にご飯が食べたい。農業がしたい」と。やはり私は「野菜を食べてくれる人たちの笑顔が見たい」。強く、そう思いました。

 退院後、もう一度宅配がしたくて、消費者のお宅を回りました。みんな前と同じ笑顔で迎えてくれました。「田島さん、また野菜作ってくれるの。うれしい。ありがとう」、「よろしくお願いしますね」。夢のようでした。

 今度は、妻と二人で野菜を作り、自分でお客さんに届けました。妻や子供たち、消費者の皆さんのおかげで、重い体が少しずつ軽くなっていきました。積極的に機械化を進め、あまり人に頼らない経営にかじを切りました。今では、人一倍働ける健康な体になっています。病気があってつらい人や化学物質過敏症の人も、私の作る野菜やお米なら食べられると言ってくれます。ありったけの知恵と感覚を使って、体と心に優しい作物を作り、お客さんに届けます。

 いつの頃からか、里芋を掘って芋を分離していると「忙しそうだな。手伝ってやるから」と近所のおばさんが声をかけてくれるようになりました。「私、力仕事は無理だけど、座ってする作業なら手伝えるよ」と高齢のおばあちゃん。「今年の里山の手入れは、いつするの?」と電話で聞いてくる県外の八百屋さんは、日にちだけ伝えると、あとは全部手配してくれます。当日、昼食だけ用意して雑木山に行くと、八百屋さんの友人・仲間・消費者など二十数人の手伝いの人たちが来てくれています。皆で作業し楽しく過ごします。「スナップエンドウのネットはずし、今年もするからね」。お客さんのおばさんグループ。畑の場所を伝えるだけで、きれいに片付けてくれます。

 忙しい時、二人ではとても大変だったことが、皆さんの好意で楽になりました。本当にありがたいです。

 農業を始めて間もない時期に、自然農の藤井平司さんのお話を聞いたことを、今でも思い出します。「農業がうまくなりたかったら、裸足で仕事をしなさい」。その言葉に三年間、裸足で過ごしました。もちろん宅配も裸足で町中を回りました。その頃は、なぜ裸足なのか、よく分かりませんでした。裸足で歩いたあの三年間で、自然への思いが強くなり、作物の観察力も磨かれたと思います。土壌のちょっとした違いや作物の微妙な変化を感じ取れるようになり、私の農業に生きていることに気づかされます。

 最近は悲しいことに、地域の農家が少しずつ辞めていきます。その荒れ始めた田畑を借りて耕作しています。就農当時三十アールだった栽培面積が、十一ヘクタール近くまで増えました。もちろん全て農薬も化学肥料も使っていません。始まった頃は「農薬や化学肥料があったらどんなに楽だろう」と、思った時期もありましたが、今は田畑輪換と輪作、豊富な機械力、そして消費者の応援や好意的なお手伝いで、何とか乗り切れています。

 見渡す限りの田畑の風景が、稲とハート形の葉の里芋、大麦の麦秋、菜の花などで季節ごとに塗り替えられるのを見ていると、心が安らぎ、楽しくなってきます。農薬を使わない事でそこにすむ多くの生き物の命を守り、つないでいると思います。

 将来は、レンゲ、大豆等、マメ科植物も輪作に入れて、より施肥量が少ない輪作体系を見つけたいです。安全で豊かな食生産と、そこを通る人たちが季節ごとに楽しめる風景、きれいで豊かな自然を次世代に残してあげたいです。そして、子供たちに、自然の中で上手に遊ぶ事も教えられたらいいなと考えています。夢が膨らみ、子供の頃のように、明日が来るのが待ち遠しいです。

 ある時、誰かに聞かれました。「田島さんは、生まれ変わったら、どんな職業に就きたいですか?」。今では迷わず「農業です」と、にこやかに答えます。

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