第72回毎日出版文化賞を贈呈 作家の奥泉光氏「雪の階」などに


 優れた出版物の著者や編者、出版社などを顕彰する第72回毎日出版文化賞(特別協力=大日本印刷株式会社)の受賞作が決まり、11月29日に東京都文京区のホテル椿山荘東京で贈呈式がありました。

 受賞したのは作家、奥泉光氏の「雪の階(きざはし)」=文学・芸術部門▽京都大学教授、佐藤卓己氏の「ファシスト的公共性」=人文・社会部門▽名古屋大学大学院教授、松田洋一氏の「性の進化史」=自然科学部門▽編著者の竹田晃氏が代表で受賞した「新釈漢文大系 全120巻別巻1完結」=企画部門▽岡山大学大学院准教授、松村圭一郎氏の「うしろめたさの人類学」=特別賞。

受賞した著者・編者と出版社の代表

 選考委員による書評を掲載します。

「雪の階(きざはし)」 奥泉光著(中央公論新社・2592円)=文学・芸術部門

 何年ぶりかで大作と呼ぶにふさわしい小説を読んだ。

 この大作という言葉には、スケールの大きさの他に気品高くという意味も含まれている。奥泉光さんの「雪の階」は、戦前の上流社会の音楽会のシーンから描かれる。そこには侯爵夫人や、華族の令嬢たちが登場するのであるが、このリアリティーをどう言ったらいいのであろうか。ルビを多用した固有名詞により、時代はくっきりと描かれる。この世界は多くの作家が試みたものであるが、ほとんどの場合まやかしのペダンチックに終わってしまう。「雪の階」は、三島由紀夫の「春の雪」以来の成功ではなかろうか。もしかするとタイトルは、三島を意識しているかもしれない。

 そして物語はやがてミステリーの色を帯び、二・二六事件前後の思想へと導かれる。語り手が次々と語るようでいて、誰かが中心にいる文体を、この賞を選考した佐伯一麦氏は「日本語の小説表現の超絶技法ともいえる『三人称複合多元視点』」と表現している。まことに賞にふさわしい作品だ。(林真理子)

「ファシスト的公共性―総力戦体制のメディア学」 佐藤卓己著(岩波書店・2808円)=人文・社会部門

 題名にハッとさせられる。公共性とは市民社会が民主主義を通じて実現するもの。ファシズムとは無縁だろうと思い込んでいたからだ。

 しかしファシズムは確かに個々人の自由を抑圧するが、実は民主主義と対立するわけではない。

 たとえばナチス政権は街頭での示威行為や当時のニューメディアだったラジオを介して醸成される政治的公共圏への参加感覚を踏まえて熱狂のうちに民主的に選ばれたのだ。

 20世紀になると新たな大衆動員技術とともに、財産と教養を参加資格とした19世紀的なブルジョア市民的公共性とは異なる公共性が形成されてゆく。その経緯を多様な視点から立体的に描き出す本書が明らかにしたのは、そこに全体主義と民主主義、戦前と戦後といった区別は存在しないということだ。

 宣伝、大衆動員の歴史を研究してきた著者はファシスト的公共性という概念が「ようやく多くの読者に実感として受け入れられる時代になっているようだ」とあとがきに記している。その行間に社会の現在へ鋭角に切り込む批評の含意をも読み取るべきだろう。(武田徹)

「性の進化史―いまヒトの染色体で何が起きているのか」 松田洋一著(新潮社・1404円)=自然科学部門

 草食系男子なる言葉はすっかり定着してしまった。これを少子化の元凶と見なし「俺が鍛え直してやる」と叱る声があがれば「何と時代錯誤な」と反論も出てくる。とかく性の話は難しい。大切なのは、いたずらにヒートアップせず、冷静に科学の正確な目で分析すること。本書はそのための絶好の啓蒙(けいもう)書である。

 帯にはズバリ「男たちの性染色体が危ない!」とある。性染色体とは生物の雌雄を決定するもので、ヒトの場合、女性はXX、男性はXYと呼ばれる。仮にヒトのY染色体が退化し、ついに消滅すれば、地上から男性はいなくなる。本書によると、どうやら退化傾向は科学的事実のようだ。

 だが慌てることはない。Y染色体の消滅は500万年以上後のことだという。人類発生が約20万年前だから、まあ心配はなさそうだ。

 とはいえ近年、精子の数がめっきり減っているという研究報告もある。いったい何が原因なのか。男性の生殖能力の衰えは、人工授精などの生殖補助医療によってカバーされるのか。それら重要な問題を考えさせてくれる一冊。(西垣通)

「新釈漢文大系 全120巻別巻1完結」 内田泉之助ほか編(明治書院)=企画部門

 待望の「新釈漢文大系」が完結した。思想書・歴史書から文芸作品まで、中国古典のほとんどをジャンルを問わずに網羅し注釈している。刊行開始が昭和35年というから、58年の歳月をかけた“偉業”である。

 孔子と弟子の言行録「論語」、司馬遷の著「史記」、唐の詩人白居易(白楽天)の詩文集「白氏文集」など、全120巻(別巻1)。どの1冊も生きる知恵、人生を楽しむヒントがちりばめられている。まさに「叡智(えいち)のライブラリー」といってよい。

 このシリーズは、それぞれが原典の全文を掲載し、徹底的な校合を行うことで専門的研究に資するとともに、中国古典(漢文)に親しみの薄い読者に対しても配慮がなされている。訓読、現代語訳の他、詳細で分かりやすい解説、注釈など、それを読むだけでも奥深い漢文世界が身近なものになる。

 当初の編集委員(5氏)はすでに鬼籍に入っているが、その遺志を継承して多難な出版事業を完成させた明治書院の功績を称(たた)えたい。必ずや後世に残る大事業と確信する。(瀧浪貞子)

「うしろめたさの人類学」 松村圭一郎著(ミシマ社・1836円)=特別賞

 現代日本社会の「あたりまえ」とエチオピア社会の「あたりまえ」の間にある大きなずれ。日々それに戸惑いつつエチオピア社会の調査研究をするなかで、著者は、先進国・高度消費社会とされる日本で、人びとが国家や市場の巨大なシステムに密着しすぎていることに改めて気づく。

 「あたりまえ」が構築されたものなら、別なかたちに構築しなおすこともできる。一挙にではなくても徐々にそこに小さなすきまを開いてゆくことによって、世界の枠を揺さぶり、変えることができる……。

 そこで着目したのが「うしろめたさ」という感情だ。自分が不当に豊かだというこの思いが、公平さへの責任を一人一人に思い出させ、「自分は関係ない」と麻痺(まひ)してしまった倫理性を甦(よみがえ)らせる。そういう視点から、国家を、市場を、国際援助を、公平を、ごつごつしない言葉で、しかし根本を逸(そ)らさずに論じる。身のまわりの些細(ささい)なことから変えてゆく、それがけっしてちゃちなこと、ちっぽけなことでないことを説く。非成長世代の手になる、痛いけれども爽やかな“倫理”の書だ。(鷲田清一)

<選考委員>
鷲田清一氏 京都市立芸術大理事長・学長(哲学)
佐伯一麦氏 作家
瀧浪貞子氏 京都女子大名誉教授(日本古代史)
武田徹氏 評論家・専修大教授(メディア論)
西垣通氏 東京大名誉教授(情報学)
沼野充義氏 東京大教授(スラブ文学)
林真理子氏 作家
御厨貴氏 東京大客員教授(日本政治史)
小松浩 毎日新聞社主筆


<受賞者略歴>

◇奥泉光(おくいずみ・ひかる)
 1956年山形県生まれ。作家、近畿大学教授。94年「石の来歴」で芥川賞、2009年野間文芸賞、14年谷崎潤一郎賞を受賞。芥川賞選考委員。

◇佐藤卓己(さとう・たくみ)
 1960年広島市生まれ。京都大学教授(メディア史、大衆文化論)。京大大学院博士課程単位取得退学。著書に「『キング』の時代」「言論統制」など。

◇松田洋一(まつだ・よういち)
 1955年三重県生まれ。名古屋大学大学院生命農学研究科教授。同大学院農学研究科修了(農学博士)。放射線医学総合研究所主任研究官などを経て現職。

◇松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)
 1975年熊本市生まれ。京都大学大学院博士課程修了。岡山大学大学院准教授。専門は文化人類学。著書「所有と分配の人類学」(世界思想社)など。

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