《一般部門》最優秀賞・中央審査委員長賞、農林水産大臣賞、全国農業協同組合中央会会長賞


「多くの人に支えられた私の酪農人生」

樋口由美子さん(47)=岡山県真庭市、酪農経営

私は、岡山県真庭市蒜山(ひるぜん)で、ジャージー牛50頭を息子と共に飼育しています。ここ蒜山は、標高450~650メートルの高冷地で夏は涼しく、全国でも有数のジャージー牛生産地帯です。

水稲と乳牛4頭を飼う兼業農家で育った私は、商業高校卒業後の就職先に酪農専門農協の事務を選びました。これは、自分の家で酪農をしていたことで他の職業より身近に感じたからだと思います。仕事では牛群検定の事務を任され、直接農家の方や検定指導員の方々と触れ合い、酪農に、少しずつではありますが関心を持ち始めたのです。そんな時でした。「デーリーヤンガーの集い」という若い酪農青年との交流会があり、これに参加して主人と出会いました。主人と交際していくうちに、明るくて思いやりのある人に思え、また、酪農に対する意欲を大いに感じました。そして、もし農家へ嫁ぐならば家族そろってできる専業農家へ、と以前より思っていた私は、不安もありましたが自然と共に取り組む「酪農」を主人と一緒にやってみようと決めたのです。主人25歳、私19歳の時でした。

嫁いですぐに主人に教わりながらの仕事が始まりました。搾乳は、結婚前から手伝いに通い、慣れていたのでそれほど苦にはなりませんでした。しかし、稲わらの取り入れは、初めての作業で、予想以上に重労働で、夕方の搾乳の頃はくたくたでした。しかし精神的には、「今日も一日やったぞ!」という満足感でいっぱいで、汗を流したこともすがすがしく感じるほどだったことを思い出します。その後、3人の子供たちにも恵まれ、忙しい毎日ではあるけれど充実した日々が続きました。

我が家の酪農の経営は、主人の両親が1954(昭和29)年にニュージーランドからジャージー牛1頭を岡山県で初めて導入したことから始まりました。長男である主人は、高校卒業後、中国四国酪農大学校で学び、卒業と同時に牛舎を新築し、後継者としてスタートしました。結婚当初は、両親が中心となり特産である夏ダイコン(蒜山大根)の出荷も行う複合経営でした。87年、義父の突然の死により、家族労働では無理があることからダイコンをやめ酪農専業に転換しました。それから、自給粗飼料確保のための機械設備の導入と、飼養規模拡大のための牛舎の増築を、自己資金で年々少しずつ進めていきました。

ジャージー牛の世話をする

とはいっても、仕事ばかりしていた訳ではありません。主人は、仕事と余暇をしっかり区別し、子供たちが小さいときには毎年ヘルパー制度を利用して一泊の家族旅行に出かけていました。また、アメリカ・ヨーロッパでの酪農研修に参加するなど、常に一生懸命な人で、私にもアメリカ研修旅行に行ってきたらと気遣ってくれました。おかげで大きな規模でも牛の管理は日本で習得した技術と大差ないことがわかり、地道に行っていけば成功できると確信できた貴重な体験となりました。

主人は、99年11月頃より体調が悪くなり、病院に通っていましたが原因がわからず、腹痛が出てくるようになってようやく判明したのです。最後の検査の時は、私も気になって朝の作業を終えて病院へ行くと、私だけが呼ばれ、先生の最初の言葉が、「奥さん気を確かにして聞いてください」でした。そして、大腸がんの末期で根治手術はできない状態であり、余命1年と宣告されました。目の前が真っ暗になりましたが、話は必死に聞きました。大きな手術を乗り切らなくてはならないので、主人にはこのことを伏せておくことにしました。主人はこのまま入院となり、私は、自宅までの車中、声をあげて泣いて帰りました。着くとすぐに夕方の作業が待っています。涙を拭いてヘルパーと仕事をしました。

その夜は、主人のこと、家族のこと、これからの作業や経営のことなどいろいろな不安が頭の中で渦を巻き、一睡もすることができませんでした。しかし、朝になると「このままではいけない。私がしっかりしなければ」と自分に言い聞かせ、全く食欲もありませんでしたが、口に食べ物を押し込みました。数日後、手術は無事に終えましたが、思った以上にがんが進行していて、あと半年、最悪の場合3カ月と言われました。それでも奇跡が起きるかもしれないと願いながら、朝夕の牛舎の仕事の合間に、車で1時間かけて病院へ通いました。この年の冬は、大雪が毎日降り続き、道の両脇に高い雪の壁ができ、私にとっても、とても寒い冬でした。

入院以来、酪農ヘルパー傷病互助制度を利用させてもらい、毎日1人ヘルパーをお願いし、肉体的には大変助かりました。しかし、精神的にはこの先どうしたら良いのか不安で、足が地に着いていない状態が続き、私の体重はどんどん減っていきました。これからのことを主人に相談するには、本当の病状を知らせるしかないと思い、とても辛(つら)かったですが先生にお願いしました。先生より大腸がんの末期であることを告知された主人は、「こんなはずじゃあなかった」とまるで凍りついたように冷たい涙を流しました。

この後、2人だけで、これからのことについて話をしました。私は「もう牛飼いをやめよう。私一人ではできん」と主人に言うと、主人は「わしはやめん、息子にもしてもらいたい。頭数を減らして購入乾草で飼えば、おまえならできる」と言いました。この言葉を聞いて今ここでやめてしまうと、生きる希望を絶ってしまうことになる、せめて主人の命がある限りは続けようと思いました。

そこで、カナダより導入したばかりの初妊牛は別の農家に、また家にいる全ての育成牛は蒜酪(専門農協)の育成牧場に引き取ってもらい、作業の軽減をすることに決めました。この牛たちがトラックに乗り込む姿を見た時は、こうしなければならなかった状況や、最後まで飼ってあげられなかったことが辛くて、涙が溢れそうになりました。こうして、2カ月間ヘルパーと作業してきましたが、長男が春休みになったのであとは親子で頑張ることにしました。長男は、小さい頃からよく手伝いをしていたので、中学を卒業した時には搾乳も出来、とても心強かったです。この間、近隣の酪農家の方など多くの人が牛舎にのぞいたり手伝いにきてくださいました。本当にありがたいことでした。

朝の搾乳をしていると主人の容体が急変したと電話があり、あわてて作業をヘルパーに頼み、家族全員病院に向かいました。行くとまだ意識はしっかりしていて、主人から家族一人ひとりに思いが伝えられました。息子には、酪農の後を継いでほしいこと、私には「酪農を続け家族が協力して頑張れ。でも無理はするな。いけん思うたらやめればええ」と言い、最後に「ファイト一発!」「ファイト一発!」を何度も何度も繰り返しました。この声が病室の外の廊下まで響いていたそうです。これから3日後、主人はこの世を去りました。入院して3カ月、43歳でした。この時私は、38歳になったばかりでした。

いざ主人が亡くなってみると、ここまで一緒にやってきた酪農をやめるのは悔しいし、続けることが一番の供養ではないかと思うようになりました。そして何より息子の「頑張って後を継いでする」という言葉で決心することができました。このことを周りの人に伝えると、次々に仕事の段取りを始めてくださいました。入院中に溜まった堆肥を堆肥舎から搬出し、これからの糞尿の処理を堆肥センターを利用すること、13ヘクタールの草地は息子が作るまでの5年間、荒廃しないよう近所の酪農家の方が分担し耕作してくださり、トラクターや作業機などは売却、空いた倉庫にコンテナで購入乾草を安く買って詰め込むことなど、私一人で作業できるように整えていただき、本当に多くの方にお世話になりました。

酪農経営を続けることで組合や酪農家の方に迷惑をかけないようにと、会合や研修会にはできる限り参加して、知識を高めなければと思いました。また、経営をしていく上でしっかり経営状況を把握するため、パソコンで複式簿記を開始することにしました。普及センターの月2回の研修に通い、1年で決算書まで作成することができるようになりました。体調にも気を付け無理はしないよう、毎月2回のヘルパーを利用し休日をとったり、酪農大学校の生徒にアルバイトに来てもらったりしました。

しかし、一人で作業していると、主人のことが想い出され自然に涙が溢れます。こんなときは、牛舎から見える主人のお墓に向かい「息子が学校を卒業するまで絶対に頑張るから見守って」と手を合わせました。私にとって、主人がいなくなったことで、父親として、母親として、経営者として、家族を守っていかねばならないという思いが、精神的に強く、人間として成長させてくれたような気がします。ありがたいことに主人の母が元気で、2人の娘たちと家事全般をしてくれたことも大変助かりました。

息子さんとジャージー牛とともに

息子も、高校、酪農大学校の5年間ほぼ毎日手伝いをしてくれ、よく頑張ってくれました。待ちに待った酪農大学校の卒業式には、バッグの中に主人の写真を入れて出席しました。卒業を機に、普及センターのご指導のもと、私と息子、義母の三者で、お互いが責任をもって経営に参画できるよう、役割分担や労働報酬等を取り決めた家族経営協定を締結しました。

こうして、2005年4月より息子は新規就農者として、我が家の経営の一員に加わることになりました。まずは、育成牛の飼育再開、増頭するために牛を購入、自給粗飼料を作るためのトラクターや作業機を揃えることが必要でした。経営開始に当たり、再び多くの方にご指導をいただきました。

なかでも、一番大変だったのが、我が家の草地で草作りを再び始めることでした。父のいない息子にとって慣れない大きなトラクターや作業機を使いこなすことは、とても難しかったと思います。しかし、近所の酪農家の人たちが親切に教えてくださり、助けてくださって次第に使いこなせるようになりました。私は、慣れるまで本当に心配で、牛舎で作業をしていても、手を止めてトラクターが動いているかを何度も確認しました。今では、慣れたもので安心して見ることができるようになりました。また、会合や研修にも息子が出席するようになり、今では、共進会等多くの行事に積極的に参加しています。酪農だけではなく、他の農業者の方たちとも地域を盛り上げるイベントを計画し、活動しています。息子は、このようにして多くの地域の方と関わっていくことで、5年前の私と同じように、地域の皆さんに育てていただいているのだと思います。

現在は作業を分担し、私は搾乳と飼養管理、パソコン複式簿記、息子は搾乳と種付け、トラクターによる作業全般を行っています。頭数は、ほぼ主人と経営していた頃と同じ規模になりました。牛舎は、息子の提案で牛にも人間にも快適なものとなるよう、飼槽、牛床、通路等を改造しました。

ここまで来るには本当にいろいろありました。しかし、今こうして酪農を続けていられるのは、家族や親戚はもちろんのこと、多くの酪農家の方々、地域の人々、各関係機関の支えがあったからだと心より感謝しています。主人の願いでもあった息子の就農を実現できたことは、本当にうれしく思います。そして、就農して5年目を迎えた息子に、近年中には経営移譲を行いたいと考えています。将来、ゆとりができれば、私は酪農を通して地域の方のお役に立ちたいとも思っています。

私たちは、安全・安心な牛乳を消費者へお届けするため毎日努力を重ねています。この蒜山のおいしい空気と太陽を浴びた牧草をお腹いっぱい食べたジャージー牛から搾った牛乳に誇りを持ち、これからも「ファイト一発」の精神で酪農を続けていきます。

ひぐち・ゆみこ

岡山県津山市出身。ジャージー牛生産地・蒜山高原で、長男貴明さん、義母島子さんと50頭を飼育する。長女と次女は結婚している。

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