第39回毎日農業記録賞 《一般部門》最優秀賞・中央審査委員長賞・新規就農大賞
ゼロから始めた私の農業経営(生活全てが農業)
鈴木郁馬さん(43)=高知県南国市
私は、神奈川県横浜市出身で文系の大学を卒業し、バブル景気最中の90年、上場企業の不動産開発会社に就職しました。配属先は営業の仕事でした。父親は鉱山開発で日本のみならず世界各国を飛び回る仕事をしていて、親戚にも農業と縁のある者はいません。農業と縁遠い人生を歩んでいた私の中に、農業に対する興味が芽生えたのは入社3年目のこと。神奈川県の山間部に近い場所で、農地を宅地に転用して分譲する仕事を任された時でした。
新聞紙上には農業従事者の高齢化や後継者不足、WTOに向けた世界との交渉などが取り上げられていた頃です。農地法に従って申請書類を作りながら、近隣の農家の方々と話すうちに「農地を守る農業とはどんな仕事なのだろうか」と、会社の仕事を離れて興味を持つようになりました。学生時代からアウトドア派で、キャンプやスキー、山登りなどに熱中していたこともあり、大地の上で自然を相手にする農業のことをもっと知りたい思いは日に日に強くなっていきました。年齢は26歳。「人生の方向転換はまだ間に合う」と考え、農業を学ぶ場を探し、長野県の八ケ岳中央農業実践大学校の研修科に入学を決めました。
農への思い固まる
94年4月、標高が高く、澄み切った空気の八ケ岳山麓で、農作業に1年間没頭する生活に入りました。全国から集まった学生や先生と一緒に寮で生活し、時に雲が下に見えるほ場で農業の基礎を学びます。鍬の持ち方や鎌の使い方から始まり、様々な農機具の扱い方、来年の作に向けた土作りの基本など、あらゆることを教わりました。春から秋までは高原野菜や露地栽培の果菜類(セルリー、ナス、スイカ)を育てます。寒さが厳しく、ほ場で作業できない冬は、酪農部で乳牛の世話を経験しました。朝の4時から夜寝るまで、何度も牛舎を巡回し、野菜栽培とは違う農業も肌で感じました。何より肉体的なつらさを克服する精神力、信念がぶれない開拓精神が身についたと思います。
農作業の合間には、これからの日本の農業について仲間と毎日熱く語り合ったものです。ほとんどの学生は農家の後継者で、年齢も性別も関係なく皆が先輩に思え、学ぶことばかりです。農業の厳しさ、喜びを知り、農業は無限の可能性を秘めた産業であると感じました。都会のサラリーマンの匂いが抜けてきた頃、今後の人生は農業で生活して行こうと心に決めました。
卒業後の進む道を「新規就農」と決めたものの、どこで何をいつから始めるかは白紙の状態でした。農地はもちろん機械も何も持っていません。自分が農業で自立するには、大規模な農地を必要とせず10アール単位で高収益を上げ、1人でもほ場全体を把握できる「施設園芸」しかないと目標を定めました。
就農へ「動く」
在学中に行う1カ月の農家研修は、施設園芸の実態や自分に出来るのかどうかを確かめるために使いました。受け入れてくれる農家を自分で探すため、関東、東海、四国、九州の現場を見て回りました。その中で選んだのが高知県南国市。ビニールハウスの始まりの地域で、栽培技術も進んでおり、系統販売も充実し、栽培に専念できる環境があったからです。転勤族だった父親に従って高知県で数年間暮らした縁もあります。あらゆる人脈をたどり、研修先の農家が決まりました。
経営主は、施設園芸の作業を教えてくれるだけでなく、就農活動にも協力してもらい、市役所農林課や普及所、JAに相談する機会を持てました。当時はまだ新規参入で就農した例はほとんどなく、「何も持たずに就農? 甘いのではないか」と言われたものでした。1カ月の農家研修はあっと言う間に終わり、八ヶ岳に戻り、卒業までの間は時間のある限り、就農活動に使いました。
目標や就農後の具体的なプランを考え、あとは就農できる農地を見つけるだけでした。「住む所はどこでもいい。ハウスに寝泊まりしてでも農業を始めたい」と意気込んでいました。その思いを受け止め、情報を集めてくれたのが、高知県農業会議の柳本さんでした。95年3月に八ケ岳を卒業し、横浜に戻った私に「ビニールハウスを貸しても良いという方がいる」と連絡が届きました。
すぐに現地に向かいました。柳本さんと一緒に訪ねた日は、「田役」と呼ばれる地域の共同作業の日でした。田役は、力を合わせて水田への水路の掃除や改修作業を行います。その慰労会が行われている公民館であいさつさせてもらいました。95年6月でした。
農業生活高知でスタート
ここから南国市長岡地区で農業生活が始まります。10アールのビニールハウスを資材一式ともに貸して下さった高橋さんは、現在に至るまで私を本当の息子のように接してくれています。農業の技術だけでなく、地元の行事や伝統文化の大切さ、農村生活の良い所も悪い所も、「生活そのものが農業だ」と、時には厳しく、家族のように指導して頂きました。就農してここで生きたいという自分の思いを地域の皆さんに上手く伝えられたおかげで、住む家もすぐに見つけることができました。
1年目の95年8月、10アールのビニールハウスでシシトウの促成栽培からスタートしました。南国市は全国一のシシトウの産地でもあり、寝食を後回しにして、がむしゃらに栽培に取り組みました。借り受けたハウスで2作目を終えた97年、高知県独自の助成制度に申請し、ハウスの規模拡大をしました。
97年は、シシトウ栽培の合間を使い、早掘りサツマイモの栽培を20アールから始めました。長岡地区は気候や土壌が良く、栽培できない作物はないと言えるほど大変恵まれた地域です。早掘りサツマイモを6月に収穫し、その後に稲を植える二毛作も盛んです。私もここから稲作を始めました。
この年は人生の転機でもありました。良縁に恵まれ、私の良き理解者、そしてパートナーである妻美恵と結婚しました。翌年長男が生まれる頃には、トラクターをはじめ施設園芸に必要な農器具はほぼそろえる事ができました。規模拡大したシシトウも、2人のパートさんと共に収量を落とす事もなく安定してきました。
農業や暮らしが次第に充実し、友人も増える中、お世話になった地域のために出来ることも考えるようになりました。2000年に高知県の青年農業士に認定されたのをきっかけに、農協青壮年部を立ち上げました。若い世代の交流の場を作りたかったのです。子どもたちに田植えや稲刈り、サツマイモの定植や収穫を体験させる取り組みを仲間と一緒に、始めました。小学校や保育園の先生も巻き込んだ活動です。03年には長女も生まれ、一家を守りながら、地域を活気づける役割も担い、毎日が、一年が、あっという間に過ぎ去りました。今では地域の田役組合の副総代なども任されています。地域の一員として認められる実感が大きな喜びとなりました。
新たな挑戦
シシトウ栽培はこの頃、大きな転換期を迎えました。農薬使用を減らし、害虫を天敵で駆除する栽培へと変わり始めました。何十年も栽培しているベテランの農家も私達も、皆が1年生になって取り組みました。切り替わるまで何年もかかりましたが、今では天敵利用栽培によって減農薬・減化学合成肥料に成功し、地域全体で環境保全型農業を実践しています。
露地作物では、サツマイモの周年出荷に05年ごろから挑戦しました。早掘りは1~3月に植え付けて6~7月に一気に出荷するのに対し、周年出荷は4~6月に植え付け、9~11月に収穫し、翌年の4月ごろまで出荷する態勢です。課題は寒さに弱いサツマイモの保存方法、そして販売先でした。
保存方法は、失敗を繰り返しながら独自の方法を見つけ出しました。販売先は、当時ブームだったイモ焼酎の加工用として、酒造メーカーに出荷する道を見つけました。地元で約30人の農家を集め、およそ200トンのサツマイモを販売しました。私が生産者代表として、取引先との出荷調整、生産者の取りまとめを行いました。自分の作物は後回しにしながら進めましたが、やがて限界がやってきて、わずか3年で崩壊しました。30人の生産者の代表になる事の大変さ、民間業者の理念に合った出荷態勢を維持することの難しさを、身をもって経験しました。
ほとんどの生産者が離れていきましたが、「青果で勝負しよう!」と気持ちと方針を一新し、私を含め残った3人が加工用から青果に切り替えました。「新品種でブランド作り」を目標に進め、3人で商標登録を取りました。それが「ミエルスイート」。私にとっては、シシトウに続く第2の主力品目です。これは焼き芋に適したしっとり系のサツマイモです。数年間の営業が実り、県内で知られる存在になりました。これからは量産が大きな課題です。
地域に根付く
07年に初めて、1年間の長期研修生を受け入れました。私と同じく農業の経験なしの研修生です。何とか独立させたい、若い農業従事者を増やし、活気ある地域にして、私が地域に育てられた恩返しをしたいとの一心でした。09年には、県指導農業士に認定され、より責任が重い立場になりました。新規就農者の研修受け入れ、技術指導、環境保全型農業の推進などを通じて地域に役立つことを、自分の今後の役割と定めました。
この年には、加温設備を重油ボイラーから木質ペレットボイラーに替えました。念願の作業場も完成し、いつしか全耕作面積は3ヘクタールを超えました。地域には、私も含めて県外や他の仕事からの新規就農者が6人に増えました。他に2人は独立を目指し研修中です。青壮年部活動を中心に、農家の後継者と一丸となり、子どもたちが将来、喜んで農業を始めたいと思えるような活気ある地域が目標です。
農業は「継続は力なり」と言う言葉を一番実感できる産業だと思います。ゼロから始めたこれまでの道のりの中で、様々な人に助けられ、壁を乗り越えられました。これは「継続」あってこそだと感じています。
11年には自宅を建設し、この地が永住の地となりました。唯一の心残りは、横浜の父親が完成した家を見る事なく、逝ってしまった事でした。病床で「夢や理想を高く持つ事の大切さ」を忘れないよう語ってくれ、本気で農業に取り組むことを最後に約束しました。
大地に大きな根を張り、大空を見上げながら様々な命を相手にするのが農業の仕事です。地域の伝統や文化や行事には祖先からのメッセージが含まれています。それらを引き継ぎ次世代に継承する事が私達の世代の大切な役割ではないでしょうか。共に汗をかきましょう。
すずき・いくま
横浜市出身。95年に移住し新規就農。県指導農業士として新規就農者の研修を受け入れ、地域のリーダーとしても活躍する。