第41回毎日農業記録賞《一般部門》最優秀賞・中央審査委員長賞


願いは一つ、生涯現役

望月 玉代さん(70)=静岡県富士宮市

願いは一つ、生涯現役 望月 玉代さん(70)=静岡県富士宮市

たくさんの履歴を背負った夫と共に

思い返せば、アマチュア登山家に会社員、タクシーの運転手や農業人など、あまたの履歴を背負った夫は、40年足らずの生涯を、あれよあれよという間に駆け抜けてしまった。

もともとが同じ会社の同僚だったのだが、山で遭難した親友の捜索に向かう彼と、松本での半年間の農業実習に向かう私との、甲府駅での邂逅が交際のきっかけとなった。出会いから別れまで、たった16年余りの付き合いだったが、この期間は私たち2人の、夢と冒険が一杯に詰まった至福の一時だった。

彼の半年間に及んだヨーロッパアルプス遠征。アイガーやマッターホルンを登り、世界6大北壁のピッツ・バデイレ北東壁を、日本人として、初登攀した。夫の再就職先の愛知県へ移住。名古屋刑務所に隣接した県営住宅で暮らした4年間に、2人の娘が誕生した。その合間を縫って夫は、3カ月を要したヒマラヤ遠征へ2回もチャレンジし、七千数百メートルのプモ・リ南東壁に世界で初登攀した。

2度目のヒマラヤから帰国直後に農業を志し、岐阜へ移住して養蚕と養鶏を体験した。その後に一念発起、夫の生家である現在地へ落ち着き、試行錯誤の末にヒラタケ(旧シメジタケ)の周年栽培を始めたのである。

1980(昭和55)年の夏だった。夫は、3回目を予定していたヒマラヤ遠征のトレーニング中、北アルプス唐沢岳幕岩で、ザイルが切れて墜落死した。享年39歳だった。

夫の死とともに、私の本格的な農業人生が始まった、といっても過言ではないだろう。  約5年間を夫の手元で習い覚えたとはいうものの、ヒラタケの人工栽培は、私にとってとりわけ難解なものだった。相手が目で捕えることがない菌であることから、勘と手探りでの作業が続いた。よかれと思ってやったことでも、結果は40日先でないと分からない。

当時、長女と二女は小6と小3で、当地で生まれた末娘に至っては、まだ4歳になったばかりだった。初老を迎えていた夫の両親は、ともに体が弱く、入退院を繰り返していた。

そんな状況の中で、私は家業を再開していた。何よりも、一家6人の生活が、私の肩一つに掛かっていたからである。

夫の急逝から3年仕事にも家庭にも

若かったこともあって、仕事や家庭に対する情熱は人一倍強かった。殊に夫の急逝から3年というもの、自身の活躍振りに至っては、その貪欲さに我ながら驚嘆したものだ。

まず、昼間は過剰気味の仕事があるので、皆が寝静まった夜に夫が残した膨大な記録、エッセーや山岳日誌などを整理した。私が書き綴った生活文を末尾に加え、1年を掛けて分厚い遺稿集を自費出版した。次に取り掛かったのは仕事場の大改造だった。急坂を上がった2階部分にある作業場では、すべての物を一輪車で押し上げなければならず、不便なことこの上なかった。下の物置を整理して改造し、バリアフリーの仕事場が完成した。

3年目に取り組んだのは、母家の解体と新築工事だった。大正後期に建った家は60年が経過し、床がギシギシと音を立てて鳴った。大雨が降ろうものならもっと悲惨で、雨漏りでバケツが片手分ほど必要だった。

若くて怖いもの知らずだった私は、思い切って家を建て直すことにした。同時に住宅ローンも借り入れたので、もう後戻りすることはできなかった。

ヒラタケの周年栽培は1年中休むときがなかったので、私は遊び盛りの子供たちを、どこへも連れ出すことができなかった。せめてものお詫びにと、毎日の配達には末娘を助手席へ乗せたり、学校の休みには、3人の子供たちと近くの山や川を散策した。彼女らは彼女らなりに、冗談を言い合っては笑い飛ばしたり、重労働の搔き出し作業など、子供なりの範囲で手伝ってくれたりした。

夫の父親は中国戦線で負傷して、肺の中に弾丸が入ってしまっていたため、年に数回の入退院を余儀なくされた。母親もガン体質のようで、胃を半分以上摘出したり、軽い脳梗塞を患ったりして、こちらの介護も必要不可欠だった。あるときなど、同時期に2人が、別の病院へ入院したことがあった。今考えても、当時をどうやって凌いだのか、全く記憶に残らない目まぐるしさに追われた。

それから10年後に、義母は今度は卵巣ガンに見舞われた。末期の彼女を自宅に迎えた私は、43日間をひたすらに看取って、生涯を静かに終えさせることができた。父はそれから3年間、数え切れないほどの入退院を繰り返したが、最期は心筋梗塞で呆気なく逝った。

両親の長期療養のために疲弊してしまった栽培室を、私は何とか復活させようと、これまでに倍して働いた。同時に、女の目線で見た安心安全なヒラタケ作りに邁進した。

栽培室での消毒を一切やめ、部屋ごとの移動にも埃を立てないために、通路に水を撒くだけという徹底振りだった。栄養素も米糠だけでやっていたものを、麬や増産麬、海産物から抽出した液体や竹酢などに替えた。

画期的な栽培法でおいしいヒラタケ

何よりも画期的だったのは、菌搔き後の水やりを撤廃したことである。30日近くをかけて培養した瓶を菌搔きし、その後に水を注入して数時間を置くのが通例だったが、その作業を省いてしまったのだ。培養基に水をやらないことによって、収穫量は半分近くに下がってしまったが、シコシコと固く締まって、おいしいヒラタケが完成した。

この間、子供たちの成長にも著しいものがあった。長女は高校2年の終わりになってから、恐る恐る自分の考えを口にした。

「わたし、やっぱり大学へ行こうと思う」
「大学ったって……。おかあさんにはとても、そんなお金はないよ」
「うん、分かってる。わたしはわたしで、何とかやってみるから」

スタートが遅かったので1年浪人したのだが、その期間を含む学生生活を、彼女は新聞奨学生として、朝夕は配達と集金、昼は学業にと奮闘して卒業した。後半の2年は夜に日本語専門学校へ通い、日本語教師の国家試験にも及第した。

二女は高卒後に一旦就職し、貯蓄しながら放送大学で学び、中国の山東大学へ自費留学した。現在は福岡に住んでいるが、中国語の勉強は三児の母となった今も、ずっと続けているようだ。

私も、そんな子供たちに触発されてか、これまで以上に頑張っていく決意を固めた。

実はこのころを境に、営業の収益では経営が立ち行かなくなってきていた。動力代や仕入れ、人件費などの必要経費が、じわじわと値上がりを見せてもいた。

私は生来が楽天的な性格で、頭脳を使うことは得てして苦手だったのだが、この時期は心底からさまざまなことを考えた。それで得た結論は、この際スーパーへの出荷はきっぱりとやめ、小売りを重点に据えることにした。

顧客名簿を作成し、折に触れて電話やファクスで発信した。だが、急に小売り一本でやれる訳もなく、和食割烹やレストラン、イタリア料理店などを訪ねてはセールスを重ねた。生協へ行ってヒラタケを実際に食してもらい、取引に結び付けたこともあった。学校給食にもアピールし、地元と富士市で取ってもらうことになった。

それでも我が家の経営は、ピンチであることに変わりはない。

寝る間も惜しんで考え出したのは、地元の純特産を合わせることで、セット品として、土産や使い物に売り出そうとしたことである。地元のローカル紙を無料で利用させてもらい、考え出した4通りのセット品を、「特産こりゃぁうまいずらぁ」と銘打ち、個々の商品名を広く募集した。反響は大きく、何十通もの葉書が寄せられた。その中から「綾」「舞」「和」「雅」を選んで名付け、当事者には賞金代わりに、そのセット品を差し上げた。

数々のアイデアで経営ピンチを脱出

次に思い付いたのは、年間契約販売だった。富士宮、富士地区を拠点として、各地区や集落ごとに毎月1回、ヒラタケを配達無料で、定期的に届けるシステムを作った。結果的にこれが最も軌道に乗ったようで、現時点で配達先は200軒を超えている。富士、富士宮以外の方にはプラス宅配便代が必要で、倍近い値段になってしまったが、一度申し込んでくださった方は今も更新していただいている。これらはやはり、採算度外視で、味と品質に重点を置いたのが評価されたものと思う。

2012年、夫の33回忌を終了することができた。歳月だけが慌ただしく過ぎ去ったが、彼への私の思いは未だ何一つ変わっていない。

私は現在、長女とその連れ合いと、2人の孫娘との5人家族で暮らしている。お婿さんはタイ人で、長女がチェンマイの短大で日本語教師をしているときに知り合い、結婚して日本へ連れ帰った。互いのアイデンティティーを大切にしたいとの娘の考えで、彼はタイ国籍、孫娘2人は二重国籍で、20歳になったらどちらかを選ぶことになっている。彼は今、近くの部品会社へ勤めて、真面目に励んでくれている。単純で陽気な人柄であり、家族が一つにまとまっていて、私としては大変に居心地がいい。

我が家のヒラタケは、一部では幻のキノコなどと噂され、なかなか手に入り難いという評判も耳にする。年間契約の内容も毎年のように模様替えがあり、13年はヒラタケに純特産品を加えて、月代わりのお楽しみコースも作ってみた。

私はこの夏に、満70歳の古希を迎えた。無我夢中でやってきた半生だったが、この先もなお、私なりの秘かな希望に燃えている。

その願いはただ一つ、生涯現役であり続けたい、ということである。

その一事に向けて、これからもよく食し、よく笑い、よく運動して身体機能を高め、さらにおいしいヒラタケ作りを進めていきたいと思っている。

もちづき・たまよ

静岡県富士宮市生まれ。「玉ちゃんがつくったひらたけ」を生産販売。農家仲間らで作る「五人の色っぽい筆まめの女の会(五色豆の会)」の間で回覧ノートを回し合う

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