第42回毎日農業記録賞《一般部門》最優秀賞・中央審査委員長賞
バンダナ父さんの人生記録 〜新しい仕事は故郷新潟から1000km〜
栢森 基宏さん=愛媛県松山市
2年前の暑い夏の日、私が松山で農業をするきっかけをくれた妻が天国に先立ちました。 松山に残された新潟生まれ新潟育ちの私、松山で農業を始めて11年目の事でした。
新潟生まれ新潟育ち
私は1952年新潟県加茂市生まれ。家族は心臓病を患っていた父、母、妹と弟の5人家族。父は私が高校生の時には入退院を繰り返していましたので、母が家族の生活を支えてくれていました。私は地元の商業高校を卒業後、機械メーカーへ入社し、同時に夜間の短期大学へ入学し、昼は会社で働き、夜は勉学に2年間勤しみました。病気の父は、私の成人式の背広姿を見ることなく1972年3月に他界しました。その後、地元の県立病院で看護師として働く妻と知り合い、74年に結婚、一男一女を授かり、加茂市でサラリーマンとして生活していました。
妻は、新潟から約1000キロメートル離れた愛媛県松山市五明地区の農家の出身。そこは松山市内から車で20分ほど山を登った標高300メートルの避暑地のような場所です。夏休みやゴールデンウイ-クに帰省すると、義父母の野菜づくりを手伝っていました。農作業を手伝いながらぼんやりと「定年になったら、暖かい松山で農業をしても良いかもしれないなぁ」との考えが頭を過ぎることがありました。
会社で管理職に昇進した頃、世間一般では希望退職、つまりリストラが盛んに行われていました。希望退職の提案が2、3回とあり、最後には親会社の社長から「吸収合併する」との言葉。「もう、ここには先がない」そう直感し、上司に退職する決意を伝えました。「それは困る!なんとか残ってもらう訳にはいかないか」と上司と工場長が何度も説得に来ました。長年一緒に仕事をした同僚・部下からも引き止められ、心の中では迷いが生じ、心揺らぐ毎日が続き、悩みました。
1000キロメートル離れた松山へ
ちょうどその頃、妻は更年期障害を患い、その治療と高齢の義父母の生活を看ることを兼ねて、松山に帰って生活を始めました。当時、松山は産直市の先端を行き、妻と義父母は野菜を出荷して日々収益を得ておりました。「今日はいくら売れた」「野菜が飛ぶように売れる」と毎晩楽しそうに電話で話してくれました。こういう農業もあるのかと思い「これなら何とか生活は成り立つかもしれない」そう甘く考える一方、新潟には苦労して私たちを育ててくれた母親がおり、高齢の母を置いて遠い松山へ行っていいものか? 生まれ育ち、慣れ親しんだ加茂の町を出て行ってもいいものだろうか? 会社の立場・地位を捨て辞めてもいいのだろうか? 松山で人間関係がうまく行くのだろうか?
松山の妻とも毎日のように話しました。松山に住む義兄妹からも応援すると言われ、 「よし、農業を始めるなら一年でも一日でも若いほうがいい」、人生の一大決心をして2001年3月末、49歳で会社を辞め、約1000キロメートル離れた四国・松山に生活のベースを移し、作業帽子をバンダナに変えて、農業のまね事を始めました。
農業の恩人たち
友人知人もいない松山で農業の師匠は義父でした。「種蒔きは畝を作って、種を蒔く」何も疑うことなく畝を作っていると、「お前さん、何をやっとる。ここの地質は砂壌土だから、畝は平畝。畝はいらん。そこに種を蒔く」と義父に言われ、「へぇー。畝はいらんのか。これは楽でいい」と目からウロコが落ちる思いがしました。見ると確かに畑を均した後、種を蒔く溝を切り、手播きで種を蒔いています。年老いた義父の手では、種が多く落ちたり、逆に種が落ちなかったり、発芽はバラバラになります。これでは間引きが大変と近所の人に相談すると「こんなんがあるぞ」と、播種機を見せてくれました。早速、機械第一号として播種機を購入。決まった個数の種が等間隔で落ちます。
作業の効率化が図られ、俄然やる気が湧きました。しかし、ここで何を、どれくらい作ればいいのだろう?どこに売っていけばいいのだろう?地区の人が農業を辞めていく中でやれるのだろうか?等など農業でも悩みは尽きることがありません。
情報は必要だと、農業関係の会合があれば参加して先輩諸氏の話を聞き、自分なりにやってみました。広報誌で松山市農業指導センターの野菜の作り方講座の募集を見つけ、6か月間週1回のペースで参加し、野菜づくりのいろはを学びました。もちろん師匠である義父からも、五明地区の美味しい伝統野菜などを聞き、妻と実践してみました。春はほうれん草、ジャガイモ、ゴボウ、長芋、スイカ、キュウリ等を植え付け、春から夏にかけて産直市や松山中央市場へ出荷しました。冬採り野菜はジャガイモ、カブ、ホウレン草、大根、玉ねぎ等を植え付けしました。しかし、大量に収穫出来てもスーパーの直売所1か所では、いくら売れると言っても全部売り捌くことは不可能です。結局、安くても市場へ持っていかざるを得ませんでした。
人家の少ない五明地区、さらに地区から離れた我が家の畑は野生鳥獣の天国でもあります。山の特色を活かし、甘いスイカや粘りのある長芋に挑戦し、それは美味しいスイカができ自信があったのですが、2年目にはイノシシの被害にあい全滅状態となりました。
鳥獣被害と戦いながらの農業でしたが、そうこうしている内にも産直市のブームが到来し、松山市内の大手スーパーマーケット内に、次々と野菜の産直市コーナーができ、我が家の野菜の販路も広がっていきました。
また、この頃に飲食店への野菜出荷が始まりました。そのきっかけを作っていただいたのが、愛媛でイタリアンレストランを展開している㈱マルブンの眞鍋明社長でした。市内に新店舗を出店する際に、わざわざ私の山畑まで訪ねてこられ、野菜と畑を見られて「農家レストランを作りたいので、ぜひ五明の野菜を使いたい」と言われ、お付き合いが始まりました。ジャガイモ、キュウリ、ズッキーニ等など旬の野菜を配達します。店内のメニューボードには「五明 栢森さんのジャガイモを使ったピッツァ」等と書かれ、シェフたちが野菜の美味しさを最大限に引き出し調理するため、いつもお店は混み合っています。眞鍋社長には、大阪のホテルも紹介いただきました。なんと大阪から五明の山畑まで足を運んでいただき、社長、総料理長、営業部長の皆様に気に入っていただくことができ、取引が始まりました。「一年を通してジャガイモ、キュウリ、人参が欲しい」と嬉しい要望もありました。しかし、残念ながら一年間通しという栽培はできませんので、季節ごとに自信のある野菜の取引をさせてもらっております。
松山に来て農業を始めて7年目。自分の農業の方向が見えてきた2008年、師匠である義父が他界しました。亡くなる前に義弟に「栢森はすごいやつじゃ。わしのやれなかった農業をあいつはしよる」と話したそうです。最後まで私にはそんな事は言ってくれませんでしたが、義父がいたから農業ができました。ありがとう!と天国に向かって感謝しております。
新しい家族と悲しい別れ
「一緒に農業をやろう」と、新潟で腰を痛めて介護の仕事を辞めた息子を、09年に妻が松山に呼び寄せました。もちろん農業未経験の息子、今度は私が師匠です。
家族3人新しい農業を目指し、耕作面積を増やし、ハウス4棟約10㌃を借りて春・秋の二作のハウスキュウリ栽培を始め、所得増加に向けて、仲良く、時には喧嘩をしながら野菜づくりに取り組みました。畑を遊ばせることが無いよう作付計画も綿密に練り、販路拡大にも知恵を出し飲食店等へも積極的に出向きました。野菜には栢森農園をPRするための顔写真の入ったシールを貼り、SNSを活用して栽培状況を紹介するなど、3人で一生懸命取り組んでいきました。
12年6月、息子が会わせたい人がいると一人の娘さんを連れてきました。「あれ?見たことある娘さんだ」と一目でわかりました。実家が農業の娘さん(真子)とは、野菜を出荷する産直コーナーで時折会っていたのです。「一緒に農業をやっていきたい」と言ってもらい、我が家に新しい家族が増えることを妻と小躍りして喜びました。
しかし、そんな良い事ばかり続きませんでした。
その翌月、7月18日は猛暑で暑い日でした。
午前中は3人で出荷最盛期のキュウリの畝間の草削りをして、煮えかえるような暑さに疲れながら午後は家で十数コンテナもあるキュウリの荷造りをしていました。私はイビキをかくし、早朝涼しい時間に起きて仕事をするため妻とは別室で寝ていましたが、妻は深夜23時頃まで残っていたキュウリの荷造りをしてから寝た様子でした。「おーい、畑にいくぞ!」翌朝畑に行くため別室で寝ている妻に声をかけましたが、返事がありません。妻が寝ている部屋を開けると、生気のない妻の姿がありました。すぐに救急車を呼び、病院へ運びました。くも膜下出血でした。手の施しようのない状態で、20日早朝眠るようにして天国へ旅立っていきました。結婚してから38年目の暑い夏の別れでした。あまりにもあっけない別れで、妻のいなくなった現実を受け入れること、気持ちを立て直すことができない日々が続きました。
しかし、泣いてばかりではいられません。 男2人となった私たちの生活を真子ちゃんが支えてくれていました。息子たちの結婚を早くしてあげなければと、準備に取り掛かり、妻が楽しみにしていた結婚式を翌年3月に挙げることができました。
さぁ、未来に向かって
松山に来て14年目の夏を迎えました。昨年孫も生まれ、我が家は賑やかになりました。
今年も1,000本近いキュウリの出荷最盛期を迎えて、産直市や飲食店、ネット販売への発送など忙しい毎日を送っています。標高300mの五明の野菜は美味しいとじわじわ浸透してきました。13年前に巻き始めたバンダナはいつしか私のトレードマークになり、どこに行くにもそのスタイルです。
49歳で新潟を離れ、妻の故郷松山に来て、師匠である義父や近所の人々に助けられながら、今では農業を仕事として生活することが出来るようになりました。”私の野菜を欲しい”と連絡してもらうまでになりました。
いくら上手く野菜づくりが出来ても、売ることが下手であれば収入は増えない。そんな事では次の人が育たない。「農業人よ、商人でもあれ」いつも、この言葉を今でも胸に置いています。売る方も買う方も納得できる良いものを流通させることをモットーに、これからも農業に取り組んでいこうと思っています。
人生には大小様々の波があり、「私の人生の終わりは良い波に乗れた」と思える人生にしたいと思い頑張っています。天国の妻も孫を抱きたい思いで日々この様子を見ていることでしょう。
新潟に生まれ、縁あって1000キロメートル離れたここ四国・松山で天職である農業を通じて良い仲間、新しい家族に巡り逢えたことに心より感謝しています。
かやもり・もとひろ
1952年生まれ。長男夫婦、孫との4人暮らし。新潟生まれの新潟育ちだが、49歳の時、妻の実家のある松山で就農。トレードマークのバンダナは工場勤務時代の帽子代わりに着用を始めた。40アールの畑でキュウリ、ジャガイモ、ニンジンなどを栽培している。