第45回毎日農業記録賞《一般部門》最優秀賞・中央審査委員長賞


私の道楽から六次産業化に経営発展
――夢は棒もち(性学もち)を日本一の餅に!――

小林 淑子さん=千葉県匝瑳市

1 同級生の夫と結婚して農業デビュー

 「おらいに嫁に来たら大変だぞ〜!」義父に驚かされて、不安は多少あったものの23歳の私は若さゆえ「何とかなるさ!」と昭和51年、高校時代同級生だった夫のもとに嫁ぎました。

 水田専作農家だった小林家は、農閑期になると夫や義父は他産業で働いていました。

 私は農業をやりたくてブロッコリーの苗も一緒に嫁ぎ、「農閑期の収入源になるね〜」と、野菜づくりが好きな義母は大喜び。

 早速畑や水田に約1haも作付けて私の農業デビューとなりました。

 普段は義母と2人で休日になると夫や義父も手伝い、家族皆なで働きました。その甲斐あってその年の収益で軽トラック1台を購入することができました。

 これに味を占め、昭和53年からはとうもろこしも1ha栽培しJAに出荷しました。しかし、最盛期を迎えると日毎に価格も下がり、1箱(10㎏)当たりで1日1,000円も下がってしまうこともあり愕然としました。

 「そうだ!実家の婆ちゃんは行商してたから、私も人に頼まず自分で売ってみよう!」と愛車の軽トラにとうもろこしを山積みにして行商がスタートしました。

 無我夢中で飛び込んだのは近くの工場や民家でした。皆なに冷やかされながらも顔なじみとなり、「遣い物にすっからよ、今度来っ時はいいとうもろこしも持ってきてくれや〜」など注文も増え、売り上げも順調に伸びてきました。

 行商で得た収入でおかずを買うなどしてるうちに「私もボーナス位は欲しいなあ。」と思い、高校時代に培った技術と育苗ハウスを活用してパンジーや葉ぼたんの苗を作り、販売を始めました。行商のスリルと自分で売る楽しさを知った私は、ますます農業への意欲が湧き、わが家は水稲専作から野菜と米の複合経営へと転換しました。

2 生活改善グループの仲間と朝市や直売活動を始めて地域に活力を!

 昭和56年に集落の若妻達と「若妻会」を結成し、その後昭和58年に仲間8人で生活改善グループの仲間入りをしました。

 プロジェクト活動をとおして自家用野菜や果樹を増やし、どこの畑に行っても野菜がゴロゴロ転がり「取りに来てくれればあげるけど、忙しくて配る時間もないし〜」そんな声があちこちで聞こえました。

 そんな時に市役所から、昔は毎月8日に市が開催されて「八日市場市」という名の由来にもなったので朝市を実施したいと相談があり、私は「朝市立ち上げの準備委員」となりオープンまで準備を進めてきました。

 そして、昭和63年10月に市役所の駐車場で朝市がスタート。普及所の先生からは「淑子さんの目玉商品を作ることが大切ですよ」とアドバイスをいただいたもののわが家で年中あるものはなにかなあ?・・

 「あっ!お米がある!餅だったら製造許可もいらないし、私にもできる。」と実家の母の協力を得て毎週土曜日は餅つき日。

 私の地域では「夏の餅は犬でも食わねえ」と言われ、家族にも夏でも売れるのかと言われましたが、前日についた柔らかい餅は消費者に大盛況で、「これなら米加工でいけるぞ!」と確信を得ました。

 その後、週1回の朝市では野菜が育ち過ぎ若いお客様は早起きが苦手、常駐の直売所が欲しい!との声に応え、朝市組合の有志で「朝市君の直売所」をオープンしました。

 すると餅つきは毎日となり、餅を販売する組合員も増えてきました。そこで私は「美味い餅を作りたい!」という思いが一層強まり品質を考慮して杵つき方式の機械の導入、もち米の品種やパッケージ、量目等々加工への意識が高まり、研修会等へも積極的に参加し情報収集と技術向上に努めました。

3 夫が!私が!次々と襲う試練がきっかけで加工部門の拡大に。

 平成4年もあと数日、慌ただしく最後の朝市の準備に追われていた時、突然、従兄が血相を変えて飛び込んできました。犬の散歩に出かけた夫が酒飲み運転の車にひかれたとのこと。取るものもとらず病院へ。すると外傷はほとんどないのに頸椎を痛め8カ月の闘病生活。医師からは99%起き上がる事はできないと宣告され、私は気力も失いただ茫然と月日が過ぎていくだけの生活が続きました。

 2〜3カ月が経った頃、そんな私の姿を見て可哀そうに思ったのか、長女は高校受験の精神的な重みを一人で背負い、中学生の長男も世話をかけないようにと子供達は逞しく成長していました。

 そんな子供達の姿に勇気づけられ、塞込んでいた私は「こんな時こそ夫の分まで子供達を守らなければ。」と心機一転。

 「母ちゃんの道楽の城」と言われてきた直売や朝市を「一家の稼ぎの柱」にしてやるぞ!と決意しました。

 ところが夫の退院直後、私は体調を崩し受診すると、結果は関節リュウマチでした。

 まだ38歳、これからの人生どうなるのだろうと。一時は失望感に陥りましたが、この程度で良かったと思い直し、嫁ぐ時の「何とかなるさ!」と再び奮起しました。夫も厳しいリハビリに耐えた甲斐あって4年振りに農業に復帰することができました。

 様々な試練を乗り越えて、家族で支えあえる農業を選択してよかったと喜べる時がきました。

4 「たかが餅、されど餅!」がわが家の収入源の要となる

 平成14年の市内大型直売所の建設を機に加工室を増築。新たな加工機材も整備し、何か餅の加工品以外のものをと試行錯誤の毎日。

 私の育った旭市干潟地区には、世界初の農業協同組合をつくり幕末の農村指導者である大原幽学が、農家の食生活改善で指導した性学もち(つきぬき餅)が郷土食として継承されています。うるち米を使い、つけばつくほど柔らかく1日位たっても固まらず美味しく食べられます。筒状の餅にして切り分けて食べるので地域では「棒もち」とも呼んでいます。

 私はその棒もちに着眼し白い餅と草餅を作り、年間通して販売しています。あんこやみたらしあん、雑煮、鍋もの等様々な食べ方ができ、胃にも優しいと人気商品の1つです。

 近頃では、韓国料理のトッポギに食感が似ていることから韓国料理店からも注文が定期的に入るようになり、異国の食文化とのコラボで用途も多様化しています。

 もっと他にないかな?「そうだ!混ぜご飯や赤飯ならいけるかもしれない!?竹の子ご飯やグリーンピースご飯は?」地元や旬の素材を使い、彩り豊かな種類のご飯を販売することにしました。また食べる時の場所や用途に応じてパック詰めやおにぎりなどパッケージにも工夫したところ、これが大人気!営業マンやトラックの運転手さん、そして子供やお年寄りなどには手軽に食べられるおにぎり、家庭団らんでゆっくりとした食事や手土産にはパック詰めが利用されているようです。

 今までの努力が報われ、売り上げも順調に伸び、加工部門の収益で2人の子供を大学まで卒業させることができました。

5 女性起業家の仲間と共にレベルアップ!

 起業経営の発展を目指している海匝地域の農村女性起業家14名と女性起業5グループで「いちおし海匝の味ネット」を設立。

 1人の力なんて些細なもの、今まで表に立ち販売など経験したことのない女性達が組織で出店することにより「いらっしゃいませ。美味しいお餅で〜す!漬物で〜す!」と出店の回数を重ねるごとに大きな声が会場に響き渡り、お客様とのコミュニケーションをとおして楽しく商品づくりのヒントも獲得。

 初代会長に就任した私は、いちおしのオリジナル商品を開発したいと全員で何度も試作を重ね、郷土食である性学もちをアレンジした「いち押しバーガー」を商品化しました。イベントや産業まつりで販売したところ大好評でいつもすぐに品切れとなりました。

 多くの女性がネットワークの活動をとおして技術と販売額を向上し、農家起業へと経営発展を遂げた農家も多くなりました。

6 六次産業化を次代にバトンタッチ!

 朝市や直売に参加した頃は、道楽の城と言われ気にもかけてくれなかった家族も、現在は全員が加工部門に従事しています。

 加工を始めた当初のわが家は水稲3haでしたが現在は10haとなり飼料用米を除いてもち米やうるち米は全量加工し販売しています。

 当初の販売額に比べて、今では10倍以上の金額になり農業所得の90%を加工部門が占め、わが家の経営の柱となっています。

 都会の生活を離れ平成16年に就農した長男は、早起きが苦手で朝早からの加工作業には殆ど従事していませんでしたが、今ではお正月や上棟式のお供え餅は長男でなければ作れないほどに腕を磨きました。

 今後は六次産業化の経営を息子達に継承していきたいと思いますが、息子達のセンスを生かして新たな農業へのチャレンジも期待しています。

7 私の夢は棒もち(性学もち)を日本一に!

 私には棒もちをきりたんぽより有名にしたいという夢があります。同じうるち米の加工品なのに知名度は圧倒的にきりたんぽの方が上。でも棒もちの方が用途も多様で食感も優れていると自信はあります。もっと全国的にPRして知名度をアップし、ぜひ海外にも輸出して世界中の人に食べてほしいなあ。

 「淑子、商いはあきねえから商いって言うんだよお-」今も祖母の声が聞こえてきます。

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