第45回毎日農業記録賞《一般部門》最優秀賞・新規就農大賞


非農家出身、酪農家になる

青沼 光(あきら)さん=富山県高岡市

 朝5時。慣れない手つきで搾乳機の電源を入れる。ブーンと低い機械音が夜明け前の薄暗い世界に響き渡る。「…よし。」と小さく呟く。酪農家として最初の牛乳を搾り、出荷する朝が来た。2015年春、私は一つの夢を叶えた。

 私は1986年に広島県で生まれた。実家は広島市の住宅団地にあり、両親共働きのサラリーマン家庭だった。小学生の時は野球選手になりたいと言っていた。私が酪農と出会ったのは中学2年生、高校への進路を考えていた時の事だった。将来の自分がどんな仕事について、どんな生活を送るのか想像をする時に、身近にいる両親の姿が思い浮かんだ。両親は朝、家を出たら、夜の9時頃まで帰ってこない。親の仕事に興味はあったし、尊敬もしていた。しかし、生活として見た時に、平日は家に寝る為に帰ってくるような生活を送っている自分を想像すると、これじゃないという思いがあった。この日も両親の帰りを待ちながらテレビを見ていた。画面に映ったのは、緑の草の上を走ってくる白と黒の模様をした牛の群れだった。画面を通した酪農との出会いだったが、牛を飼って牛乳を出荷する事で生活をする職業が日本にある事を知った瞬間で、牛を眺めてゆったりと生活できるなら酪農家になりたいと心が動いた。

 酪農家になるために実家から通うには困難な農業高校に進学し畜産を学びたいと胸の内を話した。父は「好きにすりゃええ。」と一言で背中を押してくれた。そしてこの時、母から驚きの事実を聞くことになった。実は、私が3歳の頃まで母の実家は酪農家だったという事だ。私が小さいときに祖父が亡くなり、廃業していた。母は「じいちゃんが生きとったら、絶対反対したじゃろうねぇ。酪農の厳しさを一番よく知っとるけぇ。」と言った。

 酪農家は乳牛を飼養し、そこから得られる牛乳や子牛などを販売して生活する経営者だ。経営の事はもちろん、法律や牛乳の流通や業界の仕組みだけでなく、他の農業との関りなど、多くの事を学ぶ必要があると知り、農業高校を卒業した後、大学への進学を決めた。大学では講義の他に、付属農場だけでなく、牧場へも足を運び現場での作業を体験する機会も増やした。

 当時から酪農家と消費者の遠さを感じていて、それが牛乳や乳製品の消費だけでなく、酪農後継者や従事者となる人材確保を難しくしていると考えていた私は、北海道の様な巨大生産地ではなく、より消費地に近い場所に牧場を持ち、酪農への理解促進に繋がる取り組みを行いたいと思っていた。そんな酪農家になりたかったが、現実は手持ち資金が無く、経験もない。当然、資金の借り入れ自体が夢のような話だった。それでも夢に近づきたいという思いで日々過ごしていた。

 求人サイトを眺めていた時、長野県で後継者候補を探している牧場を見つけた。私の置かれている状況で第三者継承という手段は酪農家になるための最善の歩みに感じ、早速インターンシップを申し込んだ。都府県で言う中規模の個人経営の酪農家だったが、自給飼料を約30ha管理していた。社長の先代から開拓してきたその土地は、多くの汗が染みこみ、初めは数頭だった乳牛も150頭となり、改良も進んでいた。その苦労を、後継者不在という理由で途絶えさせたくないという思いを社長は持っていた。牧場は静かな山の中にあり、社長の考えや、技術力の高さを目の当たりにして強烈に憧れた。この牧場の持つ技術と乳牛を継いで、生活していけるなら、こんな贅沢な話は無いと心から思うようになり、後継者候補に志願し、社長もそれを望んでくれていた。絶対にうまくいくと思った。こうして、大学4年間が過ぎて、夢へ向かい前進を続けた。

 知り合いもいない新天地ではあったが、それ自体は、高校、大学と経験済みで気にならなかった。社長のご自宅に住み込みでの生活は学ぶことも多く、何より夢の実現を目前に、足りない知識や技術を社長から盗み取ろうと必死で、毎日が充実していた。しかし、住み込みという事から極端にプライベートが無く、さらに、酪農の朝晩に仕事が集中する特殊な勤務時間体制によって、気づかぬ間に私はストレスをため込んでいった。地域のコミュニティに参加しようにも時間が合わず、友人や知人がいつまでも出来なかった。休日にも予定が無いと仕事をしていた。

 ある日、後継者候補として雇用してもらっているのに、私の思い描く牧場像へ向けた取り組みを社長に許可してもらえない事に苛立ち、溜め込んできたストレスが爆発してしまう。その後も、ぶつかり合う事が増え、次第に歯車が噛み合わなくなり、最終的に後継者を諦め牧場を辞めるという苦渋の決断をしてしまう。たった2年間の出来事だった。今を思えば、近くにアパートを借りるなどして、その状況を打開できていればと思うこともある。就農したばかりの若者の描く将来への展望と浅い取り組みの提案を、その道で40年以上苦労を重ねてきた経営者が簡単に首を縦に振るはずが無いのも当然だった。しかし、私も社長の思いに応え、後継者候補として牧場を地域に必要なものにしたくて必死だった。常に周囲から第三者として酪農家になることは困難だと言われ続けていた。それでも夢に近づいていると思えていたことが、私の原動力になっていた。この挫折で自身の無力さを痛感すると同時に、順調に進んできた夢への道筋を失い、何も考える事が出来なくなっていた。

 無理をして酪農を続けなくても、食べていけるし生きていけると自分に言い聞かせる一方で、学生時代から酪農中心で過ごしてきた私が他の仕事をしているのも想像できなかった。何より働かないと生活も出来ない。焦っていた。偶然、友人が勤めていた富山県の育成牧場の研修生枠の空きを知り転がり込んだ。その育成牧場は、スタッフが若く、友人もいたので次第に心も軽くなっていた。研修生という枠だったが、酪農家を目指していたことと、現場経験もあるという事で早々に仕事も多く任せてもらえた。忙しい毎日に、悶々と自分の将来を考える余裕もなくなっていた。目の前にいる牛を見て必要と思う改善を行い、予想通りに牛が良くなっていくのを見て、次第に自信を取り戻していった。妻ともこの牧場で出会った。長男も生まれ、自分の家族と暮らす中で「やっぱり自分の牧場をもって、家族で暮らしたい」という思いが強く再燃していた。

 北海道を除く都府県で酪農経営を開始する事は困難だといわれ、独身時には婿に入るしかないと言われることも多かった。いざ酪農事業を立ち上げようと、資金集めを始めたが、銀行や農協には計画すら見てもらえぬまま融資を断られ、政策金融公庫からの青年等就農資金3700万円だけを頼りに計画を練るしかなかった。利子は無いものの、返済期間は12年と短いため、牛舎の様な高額な設備投資を避け、収入に繋がる乳牛への投資に回す必要があると考えた。

 妻の実家がある富山県の就農支援制度を頼りに県内の空き牛舎を探して回ったが、簡単に交渉可能な物件は出てこなかった。数年後、県外へ動き出そうとした頃、知人を通じて高岡市で離農の動きがあることを知り、すぐに足を運んだ。

 都市近郊の牧場で近隣に住宅こそあるものの、水田も多く、川沿いの静かな牧場だった。昭和40年代に建てられた牛舎や住居に土地を含めて約3.5反。乳牛7頭付きで手の届く価格で交渉を進める事が出来た。牛舎は牛床数28頭。パイプラインで24頭搾乳可能だったが、バーンクリーナーが無く、牛舎設備も老朽化が進んでいた。加えて機械や車両、育成牛舎、飼料庫も無かった。理想を言えば、欲しいものが多くあったが、設備に投じて乳牛を揃える事が出来なくなれば、返済は不可能になる。逆に設備に不足が多いと肉体的に無理がかかり、継続が困難になる。資産を買い取った後に残る少ない資金で償還と持続可能な経営方法を考え、シミュレーションを繰り返し、方針を固めた。修繕に費用のかかる繋ぎ牛舎をやめ、牛舎内の仕切りを取り去り、フリーバーンで管理することに決めた。これで、牛舎の改修や修繕は200万円を切る価格で行う事が出来た。また、飼料も発酵TMRを利用することで、飼料庫や餌を調整する機械類への投資を無くし、最低限必要なダンプ、ホイールローダー、フォークリフトを別の離農農家より格安で譲り受け、育成牛舎や乾乳牛舎約350㎡を自力施工で建てるなど、可能な限り設備への投資を抑えた。しかし、残りの借り入れで、できる限りの経産牛を導入しようとしたとき、大きな誤算が生じていた。計画を実行に移している間に乳牛の市場価格が、計画時の2倍近くまで高騰していた。このままでは、頭数の確保が間に合わず、返済が滞るのは明らかだった。そこで、農家から廃用に出される空胎の経産牛を枝肉価格程度の20万円前後で購入し、導入後に種付けを行い、再生利用し頭数を集めた。

 こうして2017年、開業から3年目に入り総頭数は60頭を超えた。自家育成牛の分娩も始まり、軌道に乗りつつある。牧場の名前はclover farm。クローバーは牛の好きな牧草で、幸せを象徴する植物でもある。私が牧場を始めるまでに、多くの出会いがあり、支えてもらった。その感謝の気持ちを酪農から様々な幸せとして世の中へ還していきたいとの思いを込めた。ロゴにはHAPPY DAIRY COWSを入れ、事業理念とした。牛の幸せとは何かを念頭に、日々牛と向き合う。乳牛は家畜であり、人に必要とされなくなれば、その価値や頭数がコントロールされる経済動物だ。そのため、私は牛乳や乳製品をはじめとした畜産品を今後も必要としてもらえるよう、美味しい牛乳を出荷し、酪農家の取り組みを世に伝え、後継者を育成する3つの取り組みを行うことを目標にしている。この取り組みが、乳牛の社会的な必要性を高め、乳牛の幸せに繋がると考えている。具体的な活動として、牛乳を使ったジェラートやソフトクリーム、パンといった加工品で農商工連携を行う他、酪農教育ファームの認証を受け、研修の受け入れや教育機関との連携などの取り組みもスタートさせている。

 100年後も日本で酪農が続く事が、これまで酪農を支えてきた先人の苦労に報いる手段で、新鮮な牛乳を必要としてくれる消費者へ応える事にもなる。そして、人間によって家畜という運命を背負わせた牛への恩義だと思っている。

 この夏、我が家に三男が無事生まれてくれた。息子たちが、この生活環境に何を思い、どんな成長していくか今から楽しみだ。私は息子たちに酪農をやれと言うつもりはないが、家族と過ごす牧場での生活を楽しむ私の姿を見て、酪農をやりたいと言ってくれたら最高だ。

 どういう形になったとしても、日本中に新鮮な牛乳が十分に流通し、clover farmが100年後も牛乳を出荷し続ける事を、いま私は夢見ている。

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