第46回毎日農業記録賞《一般部門》最優秀賞・新規就農大賞


脱サラ農業、夢とロマンをブドウに託し

永禮 弘幸さん=岡山県津山市

 

 終電の東急東横線に揺られ、都会の雑踏から戻るとかわいい娘と妻は寝ている。窓から見える夜景は美しく、これが幸せなんだと自分に思い込ませていた。

 平成23年、東日本大震災が起きた日もいつものように都庁でパソコンに向きあい、事務仕事をこなしていた。革靴で約10キロ歩いて辿り着いた、タワーマンションのエレベータは動かず、真っ暗な中央階段に手を這わせて部屋に入った。その後しばらく、食料品などはスーパーやコンビニから無くなり、ガソリンスタンドは3時間待ち。計画停電が行われ懐中電灯を頼りに風呂に入り、今の幸せは明日の幸せを保証しないことを感じた。

 職場では経営に関する研修に派遣され様々な講義や討論を行う機会に恵まれた。研修の講師の方が「去年もこの研修を受けた生徒が自分に目覚めたらしく、退職し新潟で米を作りはじめたんですよ」と、冗談交じりに話した。周りの研修生は皆笑っていたが、僕は笑えなかった。自分の力で経営を行うことへの興味が心の奥から這い出してきていた。

 妻の実家の岡山県津山市に、40aの使われていない農地があった。祖父が梅の栽培をしていたが、後継者がおらず木を伐採し、牧草地として管理してもらっていた。生前「恵比寿農園」と命名し大切にしていた畑であったらしい。

 「農業をして自分の夢を追いかけてみたい。」その考えは、40aと相まって急速に拡がり、将来への希望とやる気が満ち溢れてきた。一度きりの人生、明日が保証されない人生、いつかではなく今、挑戦してみたいと思った。

 癌に侵され、余命宣告を受けていた父親に思いを打ち明けた。丁寧に話したつもりではあったが「何のために、苦労して大学まで行かせたと思っているんだ。いいところに就職して安泰なのに、絶対に許さん。」と猛反対された。予想はしていたものの、自分の思いを理解してもらえず残念だったが仕方ない。津山市役所や県民局に就農相談をし、親戚の農家にも話を聞いた。定年退職後でも就農は可能そうだが、やるのであれば若いうちに精一杯やってみたいと決断をした。その後父は亡くなり、申し訳ないとは思いつつも16年間のサラリーマン生活に終止符を打つべく、辞表を書いた。

 時間は十分にある。今までできなかった経験をし、いろいろな人の生き様を見てみたいと思った。親戚の農家のブドウやモモの作業の手伝いを手始めに、企業が行っている農園でのバイトをしながら、1年間岡山農業大学校に通った。

 そんな中、ビニールハウスのビニール張り替えバイトで、作業を指揮するブドウ農家に出会った。体中から滲み出すパワーや困難な作業も淀みなくこなす経験値に圧倒された。こんな人に会ったのは初めてで新鮮だった。この人を師匠とし、ブドウの圃場整備の仕方、ブドウ棚やビニールハウスの建て方、生育作業等をはじめ農家としての生き方、考え方などを学んだ。まだ、学んでいる最中である。

 農地を拡大し、近くの田んぼをブドウの圃場に整備した。自分で測量をし、圃場レイアウトを設計するための図面を作成した。カチカチに固まった粘土層は重機で何日もかけて掘り起こし、真砂土や堆肥を混ぜ、何度も耕運機で耕した。砕石と排水パイプを300mほどユンボで地中に埋め排水設備を整えた。ソルゴーを植え粘土砂漠のような土地を、農地に改良していった。端まで100mある農地を長靴で行ったり来たりし同じような作業を黙々と繰り返した。一人で同じ作業を繰り返す孤独と戦うのは、考えていた以上にしんどかった。スマホで曲を聴き、気分を上げて作業に励むが、一日中は難しかった。しかし驚くことに、体力的にはきつくても自分のペースで仕事を進められることが精神的には楽であり、サラリーマンを辞めたことを悔やんだことは一度もなかった。

 出荷するブドウはまだなかったが、地域のブドウ部会に入会した。都会から来た誰かもよくわからない自分を温かく受け入れてくれた。惜しげもなく、ノウハウを教授してくれた。一緒に産地を盛り上げていきたいと思った。ブドウの苗は愛情を掛ければ掛けただけ、順調に生育した。わからないことは、師匠、ブドウ部会の先輩、バイト先や農大でできた仲間にアドバイスを受け、苗木は少しずつ太くなり3年が過ぎた。

 「初なりにしては、永禮君いいのを作ったね。」師匠がほめてくれた。収穫したニューピオーネは小粒ながら、甘かった。僕の苦労は僕にしかわからないと思うが、ブドウはきちんと応えてくれたと思う。妻は初なりのブドウを仏壇に供え手を合わせた。

 僕は僕の農園も「恵比寿農園」と命名した。祖父は僕が結婚する1年ほど前に他界したため一度しか会ったことはなかったが、同じ道を志した僕を何となく見守ってくれているような気がしたからだ。

 翌年、ビニールハウスを建設した。3棟のハウスを建て、ニューピオーネ、シャインマスカット、紫苑、マスカットビオレを栽培した。それぞれに成熟時期が異なり、一人で作業をするには分散作業を行う必要があった。それぞれの個性を知り育てるのは苦労も多かったが、それがブドウ農家の醍醐味で楽しくもあった。

 恐れていた時が来てしまった。平成29年10月、台風21号が岡山を襲い津山地域も暴風警報が発令された。台風が発達した状態で紀伊半島沖を通ると、津山は那岐山系を吹き下ろす日本三大局地風の「広戸風」が吹く。僕の圃場はその影響を受けてしまう。防風ネットを下ろし、その時に備えた。

 500mほど離れた家の2階は寝付かれないほど揺れ、風切音が鳴り響き、庭の木々が斜めになっている様子が目に入った。「大丈夫。大丈夫。」と言い聞かせている自分と「ダメかもしれない。」と言う自分の間で夜を明かした。ハウスは自分で建設した。業者に頼むと何百万もかかるので、部材を発注し、一人でできないビニール張りの作業などだけを師匠らに手伝ってもらって建てたハウスだから、倒壊して欲しくはなかった。風が止み、夜が明けた頃、出来上がったばかりのまだ加温をしたこともないハウスが吹き飛ばされていたらと想像しながら軽トラを走らせた。心配する妻を横に乗せ、目の前に現れたハウスはビニールが多少裂けてはいたが、しっかりと立っていた。妻は泣きそうな顔をしていた。

 その日の最大瞬間風速は30mを超え、屋根が壊れる被害が出ていた。標準より太い直径25㎜のパイプで、補強の筋交いも多めに入れ組み立てたことが功を奏したのかもしれない。

 農家になり、6年目の夏が来た。ハウスが甘い香りで満たされる。加温栽培したハウスの初なりシャインマスカットは粒が丸々と揃い、大きく立派だ。マスカット特有の豊潤な香りも甘みも最高の出来である。JAが買い取り、東京や大阪等に出荷されていく。東京の高級フルーツ店では木箱に入ったシャインマスカットは1万円の値がついている。僕のシャイン達は都会の誰の口に入っていくのだろうか。有名なIT企業の社長か、海外の大富豪か、芸能人か、初任給で清水の舞台から飛び降りるように買った息子の幸せな両親か。僕の苦労が吹き飛ぶような言葉を言って食べてくれているのだろうと空想する。

 安全、安心なおいしい農作物を作るために、僕は努力を惜しまないが、体力はなるべく惜しむようにしている。草刈りは乗用で行い、薬剤散布にはスピードスプレーヤーを使用し、暑い夏にはファンのついたジャケットを着る。剪定は電動ハサミを使用し自分の身を大切にする。そして、労力以上の収入を目指す。

 顔はサングラス焼けをして真っ黒で、手は皮が厚くなりごつごつとしているが、長靴を履いた背中をマネしたくなるような、格好いい農業家になれる日を夢見て今日も仕事をする。帰り道、軽トラから見る星空は、東京の夜景とは比べようもないのである。

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