第47回毎日農業記録賞《一般部門》最優秀賞・新規就農大賞


ペコロス百年の計

近藤 由佳さん=愛知県知多市

丹念に育てたペコロスを手に、笑顔を見せる近藤さん

新聞記者と子育てで苦悩

 ペコロス。それは、直径3~4センチほどの小さなタマネギです。愛知県知多市で100年も前から栽培され、当時から、大都市圏のレストランメニューにも上っていたほどの高級食材でした。その小さな体に凝縮されたうまみと甘みは、今も昔も多くのファンを魅了し続けています。そんなペコロス栽培に、私は自分の生きる道を求め、勤めていた地方新聞の記者を辞めて農家に転身しました。今から6年前のことです。100年前にヨーロッパから伝わったペコロスが、今も地元に根付いていることに感動を覚えます。歴代の農家の手によって作り継がれてきた栽培の歴史に、私も人生をかけてみたいと思っています。

 6年前の私は、地方新聞で取材活動をしながら、長男、次男、末娘の3人のわが子との関わり方について深く深く悩む日々でした。小学2年生を頭に、保育園の年中、未満児の3人。夫や母、姑はとても協力してくれていましたが、自分自身、1日に1~2時間子供と顔を合わすことができれば良い方で、土日出勤も多く、寂しさと申し訳なさに、さいなまれていました。

 転職を決めたきっかけは、当時5歳だった次男が、保育園で流行していたウイルス性の肺炎を発症し、入院を勧められたものの、他の兄妹や仕事のことが頭から離れず、結局、通院治療を選んだことでした。医者からとても怒られました。

 幸いにも肺炎は軽く済みましたが、看病しながらの仕事では、仕事も中途半端、看病や家事も中途半端。おまけに疲労だけが募り、職場にも家族にも迷惑をかけるばかりでした。子供の健康を犠牲にしてまで仕事を続けるのは本意ではない、とぼんやり考えていました。疲れ切っていたと思います。

両立できる仕事を探して

 子供と過ごす時間をたくさん確保できて、なおかつ仕事もできる、そんな世界はないかなー。この一見欲張りな理想を実現してくれそうだったのが農業でした。自分で仕事のペースを決められる自営農業はとても魅力的です。記者時代に多くの農家を取材した経験があり、そうそう甘いもんではないのは分かっていました。

 わが居住地・知多市の特産品であるペコロスも、その時に知っていました。出荷単位が5㌔と軽く、作業も重労働が少ないため、高齢の女性1人でやっている農家もあると聞いていました。一方で、生産者が激減している現状も知っていました。ここ25年余りで生産者は10分の1に減っているとか。せっかく歴史のある作物なのに、このまま消えていってしまっていいのだろうか。そんな思いもあって、ペコロス栽培に挑戦することに決めました。

ペコロス師匠に弟子入り

 新聞社を辞め、ペコロス農家に弟子入りしました。師匠は当時80歳。サラリーマンとの兼業時代も含めると、栽培歴50年のベテランです。1年間の約束で毎日師匠の農場に通い、一緒に作業しながら、通年の栽培手順を一通り体験し、独り立ちを目指しました。

 驚いたことに、ペコロスの栽培は全ての工程が手作業でした。ITを駆使した「スマート農業」などとは程遠い位置にあり、手加減、さじ加減で進める栽培です。のちに私自身も身をもって知ることになりますが、インターネットで調べたりした一般的なタマネギの栽培方法では、よいペコロスはできません。100年の間にヒトが受け継いできた技術が頼りなのです。師匠はネットの天気予報より正確に雨の降り時を当てることがありました。雲の流れや空気感、電車の音などで分かるそうです。私は、師匠の動き、話一つも逃さないように、いつもぴったりついて回りました。ついて行った先が用足しだった時もあり、まじめすぎると笑われたこともありました。

師匠の昔話で勉強

 作業の手順とともにとても勉強になったのが、師匠の昔話です。戦時中、着物との物々交換で農家に食料をもらいに来る都会の親子がよくいたこと、進駐軍がペコロスを買い付けに来た話、伊勢湾台風の高潮で田畑が浸水したものの、翌年には米の作付けをした農家のたくましさ、海岸線の工業地帯化でのノリの養殖が廃業になりペコロス農家が一気に増えたことなど、どの文献や教科書にも載っていない生の体験談を毎日聞かせてもらいました。いつの時代も、食料を自力で作ることの重要さを師匠は体験から知っていて、食べ盛りの子を持つ私に、昔話からそうした自給自足の観点も伝授してくれていたと思います。

 また、師匠の奥様から聞いたのは、自分も子供3人を抱えて家事育児を秒刻みでこなし、さらにペコロス栽培で生計を立ててきたという話です。家族の農作業を楽にするため、昼間畑で働き、子供を寝かしつけてから、眠い目をこすりつつ運転免許を取る勉強をしたことなどを聞かせてくれました。  私が就農した当時、仕事と子育ての両立先として農業を選んだことについて「農業をなめていないか、そんな甘いもんじゃない」と責めてくるおじいさん農家がいましたが、師匠の奥さんは「みんなこうやって、ペコロスやりながら子供を大きくしてきたんだよ。大丈夫。由佳さんならできるよ」と温かく励ましてくださいました。涙が出ました。農家のお母さんは、何十年も前から仕事と子育てを両立していたんだなぁと思いました。男女共同参画、などと言われるはるか前から、農村の女性はしっかり活躍していたのです。

 さて、就農6年の私は、まだまだ子供に手がかかり、農作業時間をたっぷり取れないため、収穫量は十分とは言えません。しかし、それも身の丈にあった働き方だと思いますし、子供たちが畑で収穫を手伝ったり、虫取りや畑ごっこなどで遊んだりしているのを見ると、かつて思い描いた欲張りな理想がかなったなあ、と思います。子育てを負担だ、ネックだと表現せずに、子供がいることで自分自身も成長の肥やしになるような、そんな「子育て・親育ち」を思い描きます。それもペコロスを栽培しながらだったら、できるな、と思います。いずれ、子供たちが親の手元を離れていったら、定年退職後の主人も誘って、ペコロスに全力を注ぐつもりです。

失敗してもまた一から

 農業は、台風や大雨、高温など自然に左右されるので難しい、とよく言われます。実際、私も昨年、度重なる台風襲来で、ペコロスを保存するためのパイプハウスが壊れてしまい、育種がうまくいかないなど、課題もあります。しかし、ここ数年の経験から、農業は失敗しても、季節が来ればまた一からやり直しがきくことが分かり、私にとっては、農業は人に優しいと思えます。大雨で田畑が台無しになっても「来年こそは」と、希望を絶やさずにいられます。

 そうした農業の優しさに甘えて、思い描く夢があります。一つは、いずれペコロスの「里帰り」、つまりヨーロッパへの輸出を図ること。もう一つは、知多市に来ればペコロスが食べられる観光資源の一つに育てることです。まず、もっと多くの知多市民にペコロスを知ってもらおうと、小学校での出前授業を積極的に引き受けています。また、ペコロス生産を通じて日本の農業の将来を考える講座を、いくつかの大学で実施しました。今は「知多ペコロス」の商標化を進めながら、市やJAと協力して宣伝広報に力を入れています。

 私に、子育てと仕事を両立させる道を与えてくれたペコロスに感謝して、生産者仲間をもっと増やし、次の100年までもペコロスのおいしい歴史が続くよう、尽力したいと思っています。

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