第48回毎日農業記録賞《一般部門》最優秀賞・新規就農大賞
400年続く農家の17代目として
田中 潔さん=栃木市
実家と地元を撮影
二十歳の頃に家出しました。
若い頃は、田舎も家が農家なのも嫌いで、東京へ出てカメラマンになるためにバックパック一つを持ち、ポケベルの番号だけを残して家を出ました。
数年経ち、カメラマンとしてそこそこ仕事ができるようになりましたが、壁にぶつかります。自分は何を表現するべきなのか? 自分は何者なのか? 考える中で、自分のルーツを見つめ直すために実家と地元の撮影を始めました。
写真を撮るということは物事をよく観察することです。
カメラを向けることで、嫌で嫌で離れた地元、実家の現実、両親の想い、さらに地域の問題が見えてきます。その中で、今まで当たり前のように両親が作っていると思っていた米が、手が回らないため人に作ってもらっていた事を知り衝撃を受けました。昔からうちの集落の米はおいしいと言われ、それを誇りに思い、人にも勧めていました。しかし、自分の田んぼとはいえ、他人が作る米を自分の家の米と言えるのだろうか? これは、写真で言えば誰かに撮ってもらった作品を自分の写真と言うようなものだと感じ、ものづくりにおいて根本の部分が損なわれているのではないかと思いました。
また、写真を撮りながらもう一つ大切なことが分かります。
田中家は400年続く農家で、父は16代目だという事です。父は、それも自分の代で農業は終わりだと話してくれました。先祖が脈々とつなげてきたことを自分の代で終わりにしなければいけない父の寂しさを知った時、実家の農業を継ぐ決心をしました。嫌で離れた実家と農業の大切さを、好きな仕事のカメラマンとして自分の表現を探す過程で気付かされるという皮肉さを感じました。
米のブランディング
我が家は、栃木県南部、渡良瀬遊水地北側の新波という地区にあります。農業を継ぐと決めても、ただそのままやっても面白くないので、米のブランディングを始めます。幸い地域が米のおいしい土地で、400年続く農家の17代目であることを軸に、米作りを有機栽培で行いブランド米として高付加価値化した販売を始めます。
名前は、地域の名前「新波」(ニッパ)からNIPPA米(ニッパマイ)と名付けました。デザインもアルファベット表記にすることで、牧歌的な見せ方ではなくポップで若い世代に訴求できるようにしています。ブランディングの参考には、スペシャリティコーヒーやワインのテロワールの考え方を取り入れ、地域単位、農園単位で楽しんでもらえるように土地の名前である新波を使わせてもらっています。
米作り1年目、何とか収穫ができて販売を始めた矢先に東日本大震災がおこり、福島第一原子力発電所の事故の風評被害で全く売れません。本当は、原発事故のせいだけではなく、そもそも無名の価格の高い米が思ったように売れるほど甘い世界ではありませんでした。結局、手間暇かけて作ったお米は数年間売れ残り、一般の米以下の金額で引き取ってもらった悔しい経験もしました。
やっと米作りが軌道に乗り、面積を増やしても増産した米が売り切れるようになってきた5年後、今度は関東東北豪雨により田んぼ一面水没する被害に遭いました。避難を余儀なくされましたが幸い家族も家も無事で、数日後にはお客さんや友人が駆けつけて田んぼの復旧を手伝ってくれ、その年の収穫をすることができました。心が折れそうになりましたが、助けてくれる人や心配をしてくれる人の声で立ち上がることができました。
イベントでおにぎり屋
また、米作りを始めて数年後、「イベントでおにぎり屋をやらないか?」と誘われ、羽釜で炊いたNIPPA米をその場で握って販売しました。おにぎりは、三升炊きの釜を3回転させても、すぐに行列ができて、握るそばから売れていきます。今までマルシェ等で試食をしても米は全然売れませんでしたが、おにぎりにする事で別物のように売れていきます。試食ではなくお金を払って食べることが重要で、有料でも払った金額以上の満足度をこちらが提供できれば、並んでも食べたいと思ってもらえることに気が付きました。無料の試食では、基準がタダの米となってしまい、満足度がお客さんに届きません。この気付きから、おにぎり屋の事業化を考え始めました。
昨年、人が握ったおにぎりが食べられない人の割合が食べられる人の割合を超えたという記事を見ました。食事が楽しむものから栄養補給になりつつあると感じ、おにぎりを握ることで食べることが楽しく豊かなことだと少しでも気付いてもらえたらという思いもあります。
作った米で日本酒
次に、酒好きの父に自分の家の米で酔ってほしいという想いから、自分で育てた酒米の山田錦を使ったオリジナルの日本酒を委託醸造し商品化しました。農水省の6次産業化の認定も受け、同時に自分で販売するために酒販免許も取得しました。
動機は親孝行ですが、日本酒造りにはしっかりした目的と戦略があります。それは、米の消費が減り続ける中で日本酒にすることで別の需要を掘り起こし、酒蔵と高単価の酒米の直接契約で経営を安定させるためです。さらに、6次産業化として酒販免許を取得し自分で販売する事による所得の向上と、日本酒の名前を地名の「新波」とすることで地域の人の地酒にし、NIPPA米と日本酒「新波」に商品が増える事での相乗効果を期待しました。その土地のその年の米の味を味わってもらうために、ワインにおけるテロワールの考え方を取り入れ、徹底的に新波という土地の価値を上げることで差別化と地元を誇りに思う気持ちの醸成を図っています。
そんなことをSNS等で情報発信をしながら農業していると、ご褒美のような出来事が起こります。
ちょうど関東東北豪雨の年に、カメラマン時代のつながりで作家の池井戸潤さんを撮影するお仕事をもらいます。撮影を通して、農業をやっていることや日本酒を造ろうとしていることを話し、関東東北豪雨の時には心配の連絡をもらいました。しばらくして池井戸さんから「田中さんのSNS見てます、次回作は農業で書こうと思っているので取材させてください」と連絡があり、小説「下町ロケット ゴースト、ヤタガラス」の設定の一部に田中家のことを使ってもらいました。作中の殿村家が400年続く農家であることや、洪水のため軒先に船がある描写も、家を取材してもらったことに由来します。
何より嬉しかったのは、作中で殿村さんが自分の仕事を辞めて実家の農業を継ぐべきか葛藤する描写は、私がカメラマンを辞めて実家の農業を継ぐ葛藤そのものだったことでした。400年続いてきた農業を自分しかつなぐ事ができないという事実と自分のやりたいこととの狭間で揺れる心情には涙が出ます。巻末の謝辞で名前を載せてもらったことは一生の宝物になりました。
自然と向き合う農業
米作り10年目の今年、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが起こりました。いまだ治療薬も終息も見えない中で米作りをしています。大震災や洪水は、まだ自分の信じてきたモノづくりで乗り越えることができましたが、今回のコロナは今までやってきたことが根こそぎひっくり返るような感覚です。独自販路でブランド化してきた農家ほど影響が大きく、イベントで人が集まるような場所で不特定多数におにぎりを売ることはリスクになり、米農家として生き残りをかけた日本酒は自粛によって在庫を抱えることになりました。「こういう生活が豊かでいいよね」って思ってやってきたことがことごとく否定された感じがしています。
コロナ禍でもんもんとしている時に16代目である父に「長くやってりゃそういう時もあるんだよ」と言われてハッとします。たかだか10年農業をやったくらいで何を落ち込んでいるんだと言われた気がしました。父が背負ってきたものは400年の歴史と時間軸であり、農業をやるということは思い通りにならない自然と向き合い、全て引き受けていくことだと気付かされました。
軒先に船をつるしてあるのは、この土地が何度も水害を受けてきたからで、そのたびに先祖がそれを乗り越え種を蒔き続けたから今があります。
これから何年農業できるかわかりませんが、今はたかだか400年分の10年、歴史の一部として自分が次の世代へ何をつなげるか挑戦していきます。
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