第49回毎日農業記録賞《一般部門》最優秀賞・新規就農大賞


夢を追いかけ、今を生きよう

島根県邑南町 辻 聡志(35)

栽培を目指すブドウ新品種「神紅」の畑で、決意を新たにする 聡志さん=島根県 南町で、佐々本浩材撮影

◇つじ・さとし
 1986年、北九州市生まれ。高校卒業後、旅行の添乗員などを経て、大工として働いていたが、2020年春に就農を目指し、島根県邑南町に移住した。3年間の農業研修修了後は島根県が開発した大粒ブドウの新品種「神紅(しんく)」の栽培農家として独立する予定。趣味は旅行で、子どもと北海道に出かけたことも。

 「農業、やってみるか」

 そう決断したのが3年前。地元福岡で生まれ育ち、大工の家系で十数年、順調に働いてきた私は正にこれからが旬の、脂がのった働き盛り30代だった。

 現在、島根県でぶどう農家を目指し、研修生として日々「農」を学んでいる。

 人生とは本当に分からない。予想もしない、考えもしなかったことが世界にも、身近にも起きるものだ。

 いわゆる、〝ひとり親〟は今では当たり前。もう珍しくも何ともない。我が家も例外ではなく、愛すべきひとり息子がいる。

 本当に迷っていた。もうすぐ小学校へ入学する。私はいつものように息子を実家の祖母へ預け、日が昇る前に現場へ向かう。帰りも当然、日が沈んでからだ。休みもない。一体いくつ行事を断っただろう。その度につらい思いをさせただろう。忙しさが緩くなる気配は全くない。

 これではダメだ。また小学校6年間も同じことをするのか? 何とかしなければ。でもどうやって? 仕事の合間を縫っては「ひとり親 仕事」を検索する機会が増えた。

 今更築き上げたキャリア、職種を変えるつもりはない。悶々とした日々が続いたある日、一つのワードが私の目を止めた。

島根県新規就農相談会

 農業に興味のある方、説明会に参加しませんか?

 息子と暮らしていた家では小さな庭があり、トマト・きゅうり・ナスなどの夏野菜の他に、毎年サツマイモをたくさん植えて、秋になると弟家族も呼んで、ささやかな芋ほり大会をやっていた。もし、もしも転職することがあるならば、農業もいいな。軽い気持ちで考えていた記憶がふとよみがえった。すがるように会場へ向かったことを、今でも覚えている。

 島根県全ての市町村が一堂に集い、各町で栽培が盛んな野菜や果樹の紹介、就農までの流れ、就農後の補助金や支援制度、役場やJAの連携。そのほか移住について定住財団からの説明や、子育て環境、ひとり親の支援制度など。とても充実した内容だった。出雲市や松江市など人気の町や、その他一通りの市町村の説明を受け、帰り際にもう一つだけ、町の説明を受けた。邑南町。運命を変えた町だった。

 面積約420平方キロに人口約1万人。米と白ネギの栽培が盛んな邑南町は、〝日本一の子育て村〟構想を掲げ、移住者の受け入れが積極的かつ、超がつく程のド田舎だ。都会のようにギスギスした人間は見かけない。人柄はとても優しい。こんな所もあるんだな。存在すら知らなかった。

 まず最も大切な小学校の見学へ向かった。テレビでよく特集するような、田舎ならではの少人数、複式学級だ。プールで水泳の概念はなく、川で魚釣り。野菜作りや田植え、地域交流も頻繁に行う。正に子どもたち全員が主役! 集落全体が学校だ。自発性を重んじるこの学校は、我が子が入学しないと新1年生はいないらしい。ちなみに、2年生もいない。知り合いのいない環境で、さすがにハードルが高いのでは? しかし、これは何かの運命か? お導きか? だったら、素直に乗っかったほうがいいのでは? 悩んだ末にそう考えを改め、ここへの移住を決断した。

 邑南町では新たに島根県オリジナルのぶどう〝神紅〟の栽培に力を入れている。シャインマスカットとベニバラードという品種を掛け合わせた、〝赤いシャインマスカット〟だ。糖度も20度を超える。寒暖差の激しい中山間地特有の地形が、ぶどうの栽培には適しているらしい。この神紅をこれから産地化するために、地域おこし協力隊制度を使い、ぶどう栽培に興味のある方を都市部から募集していた。

 研修期間は3年間。1年目はぶどうをざっくり学びつつ、野菜の実習がメイン。2年目に入ると農林大学へ短期で入学し、ぶどうの専門知識や研修圃場での実習、経営について学ぶ。3年目には就農準備という流れだ。更に研修初期から神紅を定植することにより、就農して早期に収穫、収益を上げるように町が計画している。

 この事業に参加するなら、私は1期生らしい。タイミングが良い。仲間となる同期もいる。これも何かの縁なのか? 目指すべき目標が決まった。息子が楽しそうにぶどう狩りをする光景がすぐに浮かんだのだ。不安と期待を胸に、親子二人三脚が始まった。

 サニーレタスが収穫時期になった。研修生は公務員と同じ、土日祝の休みだ。「休み明けに収穫しよう!」。そう計画し、月曜日にはとうが立った。全滅だった。

 トウモロコシも収穫時期を迎えた。人間様よりも獣とカラスの連合軍の方が、収穫スピードが早かった。キャベツも食べごろだ! 数日後には真ん中から割れた。トマトも青枯れ病が発生、全滅。大根も引っこ抜くと先がない! どうやらネズミらしい。ニンジンは? これも側面を憎たらしいほど奇麗に残し、くり貫かれている。また害獣!? 加えて、まともな形の出来は一つもない。全て三又、四又、五又だ。

 なぜ? どうして!?の連続。笑うしかない程の失敗の数々。とどめの出来事は白ネギの廃棄。邑南町は中国地方でもまれな、1㍍を超える程の豪雪地帯だ。

 「年を越すまでに白ネギは収穫した方がいいよ」。先輩農家さんの助言は的中した。数年に一度やって来るといわれる大寒波は、私たちの想像を簡単に超え、都市部ではお目にかかれない、一面真っ白な世界が現れた。玄関が開かない。車までたどり着けない。道路はスケートリンク。スタッドレスタイヤは意味がない。それでも、ようやくたどり着いた白ネギの圃場は、言葉を失う程積もっている。そもそも雪で出入り口がない……。2反あった白ネギは、半分を残したまま春に無事すき込まれた。

 どんな仕事もそうだが、行き当たりばったりでは何をしてもうまくいかない。先を見越した事前の準備・段取りは大切だ。ましてや、天候と生き物が相手なのだから。

 研修1年目の戦慄デビューから、今年は2年目。仕事と子育ての両立にも随分慣れた。息子も小学2年生になり、心も体も、地元にいる頃より比べ物にならない程の成長を遂げた。知らない土地でゼロからスタートしても、案外うまくいくものだ。

 というのは本当に思い上がりで、私が今も問題なく農林大学へ通い、何の心配もなく立ち回っていられるのは、優しい同期の仲間たちと、毎日気に掛けてくれる集落の方がいるからだ。〝ピンポーン〟と鳴らない日はまずない。「帰りが遅かったでしょ。これ食べなさい」「変わりないか? 困ったら言いなさい」「子供は大丈夫? 面倒みようか?」「遅れてきても大丈夫! フォローするから」。涙が出るほどありがたい。

 改めて、お世話になっている全ての方々に、この書面をお借りして感謝申し上げます。本当にありがとうございます。

 〝夢〟ができた。34歳にして生まれて初めて思い描いた夢が。家系のレールに乗らない、自分だけの夢が。それは、〝ぶどう畑で地域の方と遊ぶ〟こと。

 赤、黒、緑、たくさんの品種に囲まれた棚下で、子供たちが元気に走り回り、おじいさん、おばあさんはワハハ!とおしゃべりしながら、ぶどうの作業体験をするのだ。よく聞く観光農園ではない。普段ぶどう農家がどんな仕事をしているのか、袋掛け、収穫、パック詰めなどを通じて作業を経験する、〝一日ぶどう農家〟になってもらうのだ。

 保育園、小・中・養護学校、福祉施設を対象とし、作業後にはお疲れ様のねぎらいを込めて、好きなぶどうを持ち帰ってもらう。かつ、売り上げの一部はその団体に〝寄付〟される仕組みだ。この作業を各団体が年間の行事として組み込むことで、運営側は毎年強力な労働力が手に入り、参加側はぶどうと寄付金が手に入る。持ちつ持たれつの関係だ。皆が笑っている写真をシールにしてパックに貼り付けてもいいだろう。笑顔のぶどうが町中に広まるのだ。まだまだ思案中だが、実現が待ち遠しい。

 農業は、子育てと似ている。元気な子もいれば、おとなしい子もいる。愛情を注がなければ素直には育たない。そんな子供たちの成長を見守りながら、私も親として成長していきたい。常に夢を追いかけ、今を精いっぱい生きていくのだ。

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