第50回毎日農業記録賞《一般部門》 優秀賞


父の背中を追いかけて

諸根こはる(18)=福島県矢吹町、県農業総合センター農業短期大学校1年

 実家は専業畜産農家で、大規模な肉用牛一貫経営をしている。繁殖43頭、肥育約400頭。両親と叔父の3人で365日働いている。東日本大震災で、原発近くの畜産農家が牛を安楽死処分せざるをえないのを見た。中2の時、母が「繁殖をやり始めたい」と言い、繁殖親牛の飼育が始まった。牛のお産に感動し、後継者になる決意をした。2019年の台風19号。阿武隈川の決壊による氾濫が牛舎を直撃。避難が間に合わなかった牛は死んだ。母は「置いていかないで」という不安な顔をうかべていた牛の顔を思い出すたびに申し訳ない気持ちでいっぱい、と涙ぐんだ。悔しさを父母は乗り越えてきたと思う。父に立派な後継者だと認めてもらえる畜産農家になりたい。

松本農園史の中の『みかん畑通信』~新聞作りがもたらしたもの~

松本茂(72)=神奈川県真鶴町、農園経営

 1973年に派米農業実習生として、カリフォルニアで1年間生活した。帰国後は地域サークルや経営の勉強会などで異業種交流をした。消費者団体の女性から「消費者は作り手の情報が欲しいのに、箱に入っていない」という言葉を聞いた。父母は65年に観光農園を始めた。最初、周囲は冷たかったが今この町で後継者がいる専業農家は我が家だけだ。消費者団体の女性の言葉が頭から離れず、PTAで広報紙を学んだ経験から「みかん畑通信」を作った。農政や環境問題への意見まで、箱に入れて送った。37年前のことだ。返信でつながりが増え、昨年で42号になった。記事のためのアンテナを常に張っている。客観的に農業を捉える目が養われた。

これからの農業をどうやって指導するといいのか

牛丸善博(57)=岐阜県北方町、県立岐阜農林高教諭

 教育現場にも流行がある。「GAP」。一番取得が困難なグローバルギャップ認証を実現するためコンサルの指導を受けた。これまでの栽培技術中心の指導から、GAPの下では消費者の手元にどうやって届いているかを確認しなくてはならない。あらゆることに根拠を求められ、あいまいさはとことん排除された。GAPは消費者視線での農産物生産基準の色合いが強い。責任感と隣り合わせだ、という厳しさを学ぶことができた。新たな風「SDGs」(持続可能な開発目標)。どんな農業が可能な形なのか、生徒とチャレンジしている。「農業と環境」という科目を全ての学科で学ぶ。農業の楽しさ、尊さを胸に、社会に出て行く生徒を育てることが農業教育の課題だ。

美しい田園風景を創り出せ

角田吾一(51)=滋賀県米原市、農業

 「田んぼやあぜを徹底的にきれいに管理すること。地主さんは喜ぶし、地域からの信頼も得られるんや」。父の教えだ。水稲40ヘクタールとブルーベリー500本を栽培している。3年前に法人化。雇用3人。農地請負のプロ集団を目指す。理想の田園情景のためにあぜとのり面の草刈りを徹底。草刈り機の作業率を上げるためにフォームを改善し、サマータイムを導入した。暑さでパフォーマンスを低下させて体力を消耗させるよりも、猛暑を避け時間を自由に使い分けた方が質の高い仕事が持続できることを実証した。「草に勝ちたい」という信念は、戦術を超越する。みんなで焼き鳥を食い、語り、大いに笑うことで結束力が高まる。除草剤散布によるほ場の草管理は、ドローンで劇的に変わった。2021年度の検査米はすべて1等米で終えた。父から引き継ぎ7年。初めてのことだった。

観光都市・日光の食のブランド価値を高める挑戦

半田耕一(64)=栃木県日光市、農業

 2004年、27年勤めた文具店の営業職を辞し、就農した。地域に貢献したいと、伝統食材のそば店の開設を決意。そば栽培を始め、07年に開業した。夏そばができれば新名物になると考えたが、最初は相手にされなかった。品種選定や播種(はしゅ)時期などの試行錯誤を重ね、栽培技術を開発。日光市長の高評価を得た。寒晒(ざら)しソバの味を低コストで再現しようと、地元業者と共同で商品開発に取り組み、マイナス2度で約3カ月低温処理することで、甘みとうまみを増すことに成功した。「日光そばの四季物語」として事業展開し、農村交流や食育にも取り組んでいる。日光市は人口あたりのそば店数が日本一だったが、年々減少している。後継者育成の「そば大学」開設の構想を描く。

農を届ける、農家になる

柳下貴士(28)=神奈川県寒川町、農業

 私が運営する「さんかく農園」は農作業体験特化型農園だ。作業を体験し、収穫できた野菜を渡すシステムで、支払料金は客が決める。学生時代、国際NGOで子供が不当に働かされ、環境が破壊されていることを知った。作り手も売り手も安さを求めるあまり、目が向かなくなっているのではないかという問題意識から、仕組み作りを目指して農家になった。短時間・個別交代制でハードルを下げ、安心して過ごせるシステムにした。自分には理学療法士の資格がある。畝と畝の間に1メートル以上の間隔をとり、車イスが通れ、座って作業ができるようにした。障がい児童施設との合同イベントを開いている。適正価格は、買う側と売る側の相互作用の中ですり寄っていくものだ。農薬・化学肥料は使わない。営業を始めて8カ月。100人近い人が足を運んでくれた。

農業に感謝~生徒とともに学ぶ~

大倉隆貴(25)=三重県鈴鹿市、教員

 農業高校に入学した。何がしたいのか全く定まっていなかったが、何か見つかるだろうという気持ちで、北海道網走市の農業大学に進んだ。大規模な畑と大型農業機械。農業のアルバイトをしてみて、農高出身だからある程度は分かるだろうという考えは、すぐに壊された。農業の面白さを伝えたいと感じ、教員の道を選ぶ。自分が感じた「農業は楽しい」という気持ちを生徒にも持ってもらうため、実習や体験を多くとりいれている。県指定天然記念物のノハナショウブの保全活動で、農業は地域コミュニティーになっていることを再認識した。農業と教員の共通点は、日々観察が必要だという点だと思う。未熟だが、生徒と農業を思う気持ちは誰にも負けない自信がある。

縁我和(えんがわ)日記

西田真由美(61)=長崎県雲仙市、農業・食品加工業

 夫が体調を崩したことがきっかけで、25年前に就農した。じゃがいもの値崩れで全量廃棄を3年間経験した。「自分の野菜に自分で値段をつけて売れないか」という思いで、6次産業化セミナーに夫婦で参加。じゃがいもをまるゆでして真空包装する加工品づくりに取り組んだ。資金のない中、試行錯誤した。「あきらめた時が本当にできなくなる時」という言葉を繰り返した。イベントにはできる限り出店し、県内外40カ所のスーパーなどで扱ってもらえるようになった。加工場の隣の築100年の和室を休憩スペースに改築した。「集い処 えんがわ」。セミナーやライブなど自由に使ってもらっている。気持ちの接着剤が必要だ。日々の小さな楽しみを見つけることと、笑うことだ。

島の高校の魅力化のために

金子雄(47)=東京都大島町、都立大島高教諭

 12年前に着任した。こんなに長くいるとは夢にも思っていなかった。農林科の生徒は男子4人。一生懸命栽培や飼育に取り組んでいた。「何とかしたい」という気持ちが芽生えた。大卒後、就職した大手外食産業で大量生産・大量消費社会に疑問を抱いた。妹の結婚式で訪問したアラスカの大自然にふれ、「一度きりの人生、自然に関わる仕事をしたい」と決意。2003年、東京農工大に入学し、教員の道へ進んだ。大島ではツバキを学び、地元の育種家の門をたたいた。16年、国際優秀つばき園に教育機関としては世界で初めて認定された。地域資源としてのツバキを磨き、学びを充実させた。今、生徒は10人。20人に増えた年もある。生徒たちに、魅力に気づかせることができると確信した。

生かされている奇跡

堤真希子(54)=山梨県南アルプス市、県立農林大学校2年

 20代後半、ストレスと過労でうつに陥り、寝たきりになったことがある。息を吹き返すきっかけになったのが桃だった。優しい香りと滋味あふれる甘さが心身に潤いを運んでくれた。その桃は、命の恩人の先生が作った。シベリア抑留の経験者で、生きていく意味を教えてくれた。「植物は人間の大先輩だ」と先生は話す。花卉(かき)栽培のアルバイトを始めた。植物には壁はなく、絶対に裏切らない。花を見ていると「水をください」と言っているようで、かん水を続けているとつぼみをつけた。植物には社交辞令やそんたくがないから心地よい。健康を取り戻し、人と触れ合う仕事に復帰した。以来二十数年。農業に挑戦しようとしている。夫はあと9年会社勤めをし、退職後は一緒に果樹園をやることになっている。

『ブロッコリーの人』として歩む道

土田龍之介(34)=石川県野々市市、農業法人社員

 石川県産のブロッコリーの約3割を1社単独でシェアする農業生産法人に勤める。2度がんを克服したが、術後は広報担当としてブロッコリーの消費拡大のため公式ツイッターの運用を担当している。図書館で野菜の記事がどのように扱われているか調べたり、取引先からのアドバイスなどで修業した。ブロッコリーの処理法や、よく合うソースの紹介などの料理法をSNSに投稿した。テレビの朝の情報番組に出演させてもらうなど、「ブロッコリーの人」として認知されるようになった。レシピ本を刊行し、デジタルフリーマガジンを創刊した。生産者の明るい未来のために、少しでも多くの消費者にブロッコリーを手に取っていただく必要があると考えている。

私の人生を変えた直売所

佐田登喜子(68)=長崎県諫早市、農業

 地元に地域の野菜を買える場所がないことに気づく。農家も直売所の立ち上げに意欲を燃やす。自分が運営を引き受け、1998年にオープンした。4坪。最初は商品集めに苦労したが、特産じゃがいもやカーネーションが評判に。店は12坪になり、地元の料理店やおかみさんらが弁当や料理を出品してくれた。じゃがいもには規格外品がたくさんあり、加工品にできないかと考えた。2005年、国道沿いに2号店をオープン。「峠のコロッケ」が看板商品になったが、加工所に居眠り運転の車が突っ込む事故が起きた。運転事故をなくしたいという思いで「ほっと一息スープ」を開発。月刊紙やSNSにも力を入れ、生産者の思いを発信している。店を「道の駅」にする話も具体化している。

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