第51回毎日農業記録賞《一般部門》最優秀賞 中央審査委員長賞 新規就農大賞


お山のてっぺんから

江渕結衣さん(30)=高知県安田町、酪農業

牛と並ぶ江渕結衣さん。笑顔がはじける=高知県安田町正弘で11月13日、行方一男撮影

 

 二十二歳、冬。私の人生は大きく変わった。

 好きなアーティストのライブ会場で意気投合し友達になった相手は、酪農家だった。我が家は幼い頃は牛を飼っていたものの、小学生の頃に離農してから牛は遠い存在となり、そのまま十数年が過ぎていた。

 『ライブで出会った友達』が高知県の酪農家の三代目だと知ったのは、仲良くなってしばらくたってからのことだった。彼と仕事の話で盛り上がり「子どもの頃は何になりたかったの?」と聞いたところ、「酪農家しか、なりたいと思ったことない」の言葉に、私は衝撃を受けた。後継者だからではなく自分が好きだからこの仕事を選んだということが、彼の言葉の端々や声色から伝わってきた。

ゼロからの山地酪農七年

 その出会いから二年後。私は生まれ育った岩手県を離れ、高知県の酪農家に嫁いで牛の世話をしていた。幼い頃は実家に牛がいたとはいえ、牛や酪農に関する知識や経験など全くなかった。あったのは『夫の大好きな仕事を一緒にやって、喜びも悲しみも二人で分け合いたい』という気持ちだけ。

 そしてその気持ちは私の大切な軸となり、就農してもうすぐ七年を迎える。

 高知県東部安田町の山のてっぺん、開拓集落に残った最後の一軒。生活するには不便だけれど自然に囲まれた場所で、二人の娘を育てながら酪農をしている。

 この七年間は、私にとって本当に濃密だった。

 自分にとって未知である酪農の世界に飛び込んでみたものの、知り合いができるどころか家の周りには野生動物しかいない。たった数回訪れただけの地に移住してゼロからのスタート。岩手から県外に出たことすらほとんどない私にとっては過酷な道のりだった。方言(土佐弁)も全くわからず、聞き返すことで会話の流れや盛り上がりを邪魔するのも申し訳なくて遠慮してしまい、『とりあえず笑ってごまかす』の一択だった。相手は質問しているのにただ笑って返されて、変な顔をされることもあった。他人とちょっとしたコミュニケーションをとるのも一苦労……といった感じで、夫にはよく「家から出たくない、誰にも会いたくない」と弱音を吐いていた。

酪農のおもしろさに惹かれ

 しかし彼はそんな私とは正反対の性格である。全く甘やかすことなく、「引きこもったらいかん!」と、酪農関係者の集まりにどんどん連れ出された。先輩方と話しながら徐々に私は土佐弁を聞き取れるようになり、今となっては自分も口走るほどになった。

 土佐弁と同じくらい、酪農の仕事に慣れるのは大変なことだった。激変した生活リズムと環境に身体がついていけず、結婚式前に特大サイズの円形脱毛症になり、式の担当美容師さんには本当に心配された。

 牛そのものやニオイ、汚れには全く抵抗なかったけれど、飼料の各名称や与える順番、自分たちが飼っている牛の名前、位置、特徴など……初めはその辺りを覚えるところから始まった。

 我が家は義父が早くに亡くなっているので、夫と義母と三人での家族経営だが、義母から教わることと夫から教わることが違っていて混乱することも度々あった。でも私はもともと働くことが好きで、自分が選んだ仕事はとことん極めたいと思うタイプなので、酪農のおもしろさにかれ、楽しみながらのめり込むようになるまでに時間はかからなかった。子牛が生まれてから成牛となり家畜としての役目を終えるまで、他所の牧場に預けずずっと一緒に過ごす『自家育成』という方法をとっていることもあり、自分の牧場にいる牛たちへの愛着は強い。

 病気や事故で牛をダメにする度に、もっと早く気付いていれば……と自分の至らなさに涙することもあった。中にはどうしても防げないこともあるが、それでも、大切な牛たちを健康に飼養し少しでも長く一緒にいるには、小さな違和感にいち早く気付いて適切な対応をすることが重要だとわかってきたのは、就農して一年が過ぎた頃だった。

 それまでは、基本的なことを覚えて夫や義母の作業の負担が少しでも減らせたら……という思いでがむしゃらに働いていた。

 でも、牛群や経営をより良くするためには知識が要るし、日々の仕事への意識も大きく変える必要があった。何も知らずにこの世界に飛び込んだ私は人一倍努力する必要があると思った。わからないから、素人だから、を理由にして諦めたり逃げたりするのは嫌だ。もっと本気でこの仕事と、牛たちと、向き合おうと決意を固めた。

 自分一人での勉強の他に、県内の先輩方と話す機会を増やしたり、獣医さんや業者さんにわからないことを質問したり、勉強会に参加したり、他所の牧場へ視察に行ったり、SNSで全国各地の酪農家とがったり……本当にいろんな場所のたくさんの方々が、私にとっての先生となって助けてくれた。

 誰もいない山のてっぺんに住んでいるからこそ、自分から一歩踏み出して人との繫がりをつくることの大切さを知ることができた。悩み苦しみながらも、自分が少しずつ変わっていくのがわかった。そしてその隣にはいつも夫がいて、私たちは二人三脚でお互いを支えとして共に成長していけるようになっていた。

 二〇一九年には、新しい搾乳牛舎が完成した。

 当時、私たちはまだ子どもを授かっていなかった。もし授かることができた時、子どもを優先するべき私とそれまでの頑張りと高齢によって身体の不調も増えていた義母が作業できなくても、夫一人での作業が可能な牛舎を目指した。

苦難にも、夫婦で先の景色を

 機械化・省力化によってそれがかない、新牛舎稼働の年に第一子を授かった。これからますます頑張ろうという時、酪農情勢が大きく変わった。度重なる飼料や資材の高騰や子牛市場の相場下落など、ネガティブな話題ばかり聞くようになった。それでも私たちは新牛舎建設という大きな投資をしたばかり。頭を悩ませながら営農していくしかないと思った。

 でも、夫は違った。二十二歳の時に父を亡くしてから経営者として奮闘してきた彼が、ここにきてポッキリ心が折れてしまった。先の見えない状況、頑張っても報われないような感覚。「辞めて、もう楽になりたい」と言った彼は、初めて見るような弱った表情だった。声を絞り出していった一言は、心の底から疲れきっているように見えた。それまで二人で苦楽を共にし、いろんな局面を乗り越えてきて、私は彼の気持ちを理解してきたつもりでいた。でも牧場の最高責任者である彼は毎日が決断の連続で、その重圧は私には計り知れないほどのものであり想像以上に彼の心は削られていたのだと痛感した。

 胸がぎゅっと締め付けられて、二人で一緒にわんわん泣いた。この時長女は二歳。私のおなかには第二子の命が宿っていた。子どもたちのことも考えると、辞めるなら傷の浅い今のうち。それが頭をよぎった。

 毎日毎日夫婦で今後について話し合いながら、私にはどうしても忘れられない夫とのやりとりがあった。

 「子どもの頃は何になりたかったの?」

 「酪農家しか、なりたいと思ったことない」

 その言葉に心を動かされたこと、これまでの曲折、すべてを思い返してみて「今辞めたら、あなたも私も絶対に後悔する。私はやりたいから、一緒にやろう」と彼に伝えた。彼は戸惑いつつも、私の熱意に押されてうなずいてくれた。

 この決断が正しかったのかどうか、今はまだわからない。後継者不足とこの情勢で、高知県内でも酪農家戸数は減少する一方だ。それでも私は、この先の景色を二人で見たい。『酪農続けてよかった』と笑い合えるように、今はただ、ひたむきに。

高知県安田町・江渕結衣 30

◇えぶち・ゆい
1993年、盛岡市生まれ。調剤薬局事務に携わっていた時に酪農家の夫と知り合い、2016年に就農。高校時代は商業研究部に所属し、簿記競技の県大会で優勝した。趣味は音楽と食べること。子育て中の娘2人と牛の世話があり、行きたいライブは我慢している。

 

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