第52回毎日農業記録賞《一般部門》優秀賞・新規就農大賞
初老夫婦の挑戦! 野菜パウダーで6次産業化
金田新也(66)=愛知県東栄町・農業

「さてさて、この畑、これからどうしたもんか?」。二〇一六年三月、父親の葬儀を終えた日の夕刻、相続する予定の約三反歩の畑を見渡して、私はこうつぶやいていた。
私は愛知県の北東部、奥三河にある東栄町という過疎に悩む小さな山村の農家の跡取り。跡取りとはいってもこの時私はすでに五十七歳、本業は町役場職員で農業経験はほぼ皆無。何の知識も技術も無い初老の農業1年生が、いや応もなくそのスタートを切ることとなった。「とりあえず、何か作ってみるか」。とても曖昧な「初志」だった。
反省から見いだした方向性
ホームセンターで買いあさった種や苗と、仕事上で知り合ったとある大学教授から栽培を促されたショウガを作付けし、ネットの情報を師匠にして栽培開始。虫害に遭いながらも何とか収穫した野菜は、妻の名義でJAの直売所に細々と出荷するも返品が続く。ショウガもなんとか二〇キロほど収穫し、十月に開催された地元のJA感謝祭に高額販売を念じて出品。結果は終了間際の値下げを狙ったおばさまたちの戦略にはまり、投げ売り状態で終了、翌日にはキロ単位の返品が届くという始末となった。「売れなきゃ始まらない」が一年目の総括。
就農二年目【二〇一七年】がスタート。課題は一年目と変わらず「どうしたもんか?」。ただ、一年目の反省からいくつかの方向性を見いだした。
●生じゃダメだ。乾燥加工して長期の販売期間を確保しよう。
●普通じゃダメだ。無農薬・無化学肥料栽培で付加価値を。
●何でも屋じゃダメだ。ショウガ以外の特徴ある乾燥加工品を開発しよう。
まずは安定的なショウガ生産が肝要。土づくりのために石灰で土壌酸度を調整。元肥と追肥には地元の養鶏農家が生産する発酵鶏を使用するよう手配した。たまたまこの養鶏農家が国のクラスター事業の補助を受けた鶏糞処理事業の開始の年だったこともあり、有機肥料の安定的な受け入れのめどが立った。
活路は激辛種
ショウガは連作ができず、輪作が不可欠。ショウガに次ぐ作物は何か。要点は三つ。①需要があること②独自性があること③獣害に強いこと。それは何か? 食卓を見回し、トウガラシに思いが至る。周りにいる辛い物好きの面々は、「探してでも食べる」猛者ぞろい、世の中には相当数のユーザーがいるのでは? このあたりで作っている人は聞いたことがない、それに、あんな辛いものは獣も食わんだろう。こうした考えからトウガラシ栽培を決意した。どうせなら激辛種ばかりをそろえようと種探しに奔走し、赤色種三種、黄色種一種の種子と苗を入手し、二年目はショウガ栽培の継続と激辛トウガラシの増殖に取り組んだ。
ショウガパウダーの生産に向けては手動式スライサー、小型乾燥機、小型粉砕機を一台ずつ購入し、十月の収穫後すぐさまパウダー生産に取りかかった。トウガラシも天日と機械を併用して乾燥し、こちらもパウダー化することができた。少量ながらも生産したパウダーは地元のJA直売所と地元温泉の売店に販売を委託した。店員さんは顔見知りばかりで購入者の評価をモニターすることができた。だが、肝心の栽培は、ショウガは排水不良で生育が悪かったり、トウガラシは定植時期が早くて枯れてしまったりと経験不足から失敗が多く、二、三年目は土地柄と作物の相性の確認など試行錯誤に追われた。
農家専業初年にコロナ禍
就農四年目【二〇一九年】 この年、役場を定年退職。町の補助制度を活用して大量加工に必要な乾燥機や加工機械を購入し、加工の体制を整えた。栽培方法も工夫し、既存のビニールハウスと新たに購入した電熱マットを使い、二月からトウガラシの苗を育て早期の収穫を目指した。空いていた自宅離れを専用の加工室にDIYし、販路も近隣の道の駅や直売所など七カ所に広げるなど、いよいよ本格生産へとかじを切ったその年の冬、コロナ禍がやってきた。ここから約二年、沿道の観光施設から人が消えた。
地域への来訪者が消えたことにより、地元中心の「待つ販売」では経営が成り立たなくなってしまった。自分ではどうすることもできない事態にしょげ返っていたところに、妻の声が……「ここまでしかけて何言ってんの。私ももう同じ船に乗っているんだよ。街、街、街。都会へ売りに行こうよ」。この激励に奮起して作戦を練り直す。規模拡大は先送り、誘いのあった物産展などの出展の機会にはことごとく参加し、見栄えを良くするため商品ラベルも一新した。そんな中で町観光協会の求めに応じ出展した名古屋の百貨店での物産展で、名古屋栄に店を構える愛知県産品ショップから出品のオファーをいただいたほか、町商工会の紹介で県営名古屋空港の県産品ショップで委託販売が行えることになった。地元JAの勧めで集客力のある新城市の道の駅でも委託販売が行えるようになった。コロナ禍は雌伏の時ではあったが、積極的なPR活動で販路拡大の機会を得て、アフターコロナへの展望が大きく開けた時期でもあった。
就農七年目【二〇二二年】コロナ禍も三年目となり、人の動きも徐々に活発化してきた。今こそ規模拡大の時ととらえ、トウガラシの栽培面積も倍に増やした。また、ショウガを栽培してくれるという二軒の農家が協力を申し出てくれた。こうして作付けが増えたことにより増加する生産量に対応できなくなったことから作業場に二〇〇v電源を引き、大型乾燥機を導入した。この頃には各作物の栽培カレンダーも確立し、春収穫のニンニク、夏秋収穫のトウガラシ・ショウガ、冬収穫のユズと、パウダー類の周年生産の道筋が立った。
就農八年目【二〇二三年】この年、コロナが感染症分類の5類に引き下げられ、人の動きも以前の状態に戻った。パウダー類の販売も好調に推移して、手にある農地を目いっぱい活用して生産に励んだものの、パウダー類の売り切れが続出した。わざわざ他県から自宅にまでお気に入りのトウガラシを求めて来訪される方も現れ、その人気の高さに誇らしくも、申し訳なくもあり、とにかく周年の生産体制を確立させることが急務と感じた。
仲間増やし地域事業化へ
就農九年目【二〇二四年】現在、野菜パウダーの販売は好調に推移しており、特にトウガラシは六品種九商品をそろえ、繁忙期には商品の補充が追いつかないほどである。気がつけば野菜パウダーによる六次産業化が完成しつつあるようだ。あの時の妻のハッパには感謝しかない。
今後に向け課題はただ一つ。栽培仲間を増やすこと。「農業は地域の原風景」であることを自らの行動を通じて発信しながら、その姿に同調してくれる住民を募り、この野菜パウダー販売が地域の核となって機能していけるよう、事業を育てたい。ゆくゆくは地域がこの事業の経営者となることを夢見て。
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