第53回毎日農業記録賞《一般部門》優秀賞
もし牧場に170頭の牛がいたら
伊藤由紀子(43)=北海道帯広市、酪農業・帯広畜産大大学院修士2年

我が家で飼う牛の2割は多様な希少品種だ。牧場に来て20年。大学で育種を学び、繁殖と改良を進めている。非農家出身。最初、北海道の酪農家に住み込みで働いたが、体がついていけず牛舎で倒れた。再度挑戦。北海道の大学に進み酪農家と結婚した。一目ぼれした1頭のブラウンスイスを引き入れたことが引き金で牛の種類が増えた。乳量、乳成分の数値だけではない乳の味の違いが舌に伝わった。ジェラートの本場イタリアで製造研修に参加し、帰国後、製造を始めた。「お店で提供したい。在庫ある?」という言葉に、力を確信した。牛の品種ごとに作るジェラートを目指す。食べる人にとっての「乳」の解像度を上げることで、産地へのまなざしを育てる。
一皿の料理が変えたもの
高橋紗良(19)=福島県矢吹町、県農業総合センター農業短期大学校1年

「福島」と聞くと今も放射線や農産物に不安を持つ人がいる。一昨年夏、カナダの羊農家にホームステイをした。「今の福島」を自分の言葉と行動で伝えたいと思った。「あの放射線のところ?」。何気ない一言にショックを受けた。ホームパーティーで、日本から持って行った切り干し大根で郷土料理を作った。「私には特別な味なんです」。フォークが伸び、皆「おいしい」と笑ってくれた。放射線とは何か。農作物検査の厳しさや食文化と食材に対する思いを話した。年配の女性は「あなたは勇敢だった」と涙を浮かべた。ファミリーの娘は「きっと福島に行くわ」と。翌夏、彼女は本当に来た。「私は伝えるよ。福島は怖くない。楽しくておいしくて安全なんだって」
自然とともに生きる
早乙女春香(35)=栃木県壬生町、農業

2018年に新規就農した。父と1㌶の農地を借り、化学肥料や農薬を使わずに年間約30種類の野菜や菜種を栽培、販売している。東京で看護師をしていた。患者との関わりの中で「人間が生きる上で本当に大切なことは何か」を考えた。豊かな自然環境と関わる中で生活することが必要だ。一番の学びは「自然の偉大さ」。人間の自己中心的な行いは農業も例外ではない。「自然の恵みをいただく」という根っこを忘れている。「人間さえよければいい」という積み重ねが気候危機に表われた。農業の課題の根底には生産者と消費者の距離が離れたことがある。地域のつながりを強めるためにも農業は必要だ。イベントや直販で消費者との距離を縮めている。環境保全への気づきが、行動につながっていく。
農業は小さなベランダから始まる世界~一つの芽吹きがいつかの畑に~
原若菜(32)=三重県四日市市、小学校講師

「ねえねえ、ベランダでオクラ育ててもいい?」。きっかけは夫の一言だった。2㍑の空ペットボトルを半分に切り、オクラの種を植えてベランダに並べ始めた。マイペースな夫が、真剣な目で。夫の実家は農家だが、働いているのは祖父母だけ。2人とも85歳を超えた。誰かが後を継ぐ話は聞いたことがなかった。写真の中で、子どもの頃の夫は祖父母が収穫した大きなトマトを満面の笑みでほおばっていた。夫には畑を思う気持ちがあったのだろう。鉢植えに小さな緑が芽吹いた。初めて収穫し一緒に笑った。何でもない一日が楽しい一日に変わっていった。さまざまな野菜も育て始めた。小さなベランダで得た知識が大きな畑につながるかもしれない。
仕事はスタイルから
不破大介(45)=富山県高岡市、農業

仕事はスタイルからだと考えている。ものごとの進め方、気持ち、どう向き合うかなども含めてだ。18歳から長距離運転手をしていたが37歳で一念発起。「農業で独立」を目指し転職した。ゼロから生み出す魅力があった。農業法人に就職した。仕事は過酷だが「カッコいい」と自分に言い聞かせた。3年目、15㌶の農地が出て独立就農。社長が背中を押してくれた。今は42㌶。ほとんどの作業を一人でやる。世の中の見方が変わった。他産業では人が増えると利益も増えるが、農業では利益の分配になる。耕作好適地には限りがあり、誰かが退場しないと参入できない。退場側への施策が担い手不足解消につながるのではないか。次世代にバトンを渡すシステムを準備しなければ、強い農業は作れないと感じている。
私と農業指導のエトセトラ~私の農業指導人生と、「農業指導者」と「担い手」の育成に向けた提言~
岩本恵美(51)=福井県越前市、普及指導員

農業の普及指導員は国家資格だ。農業生産者と向き合い、意見を引き出し、尊重し、失敗の経験も共有して粘り強く待ち、結果として行動や地域の仕組みを変えていく。2006年に結婚して横浜市から転居。試験に合格したのは16年、40歳を超えたデビューだ。21年から6次産業化や農村振興、野菜の栽培指導を担当。持つべきものは仲間で後輩がサポートしてくれた。農業の担い手の育成に必要なのは、農業高校の卒業生を採用する法人などが雇用条件などの態勢を整えること。県の農業職と農業高校の教員がもっと交流することだ。教員に普及指導経験があれば生徒への指導の視点も変わる。「農業は実学」なのだ。
大野の二刀流と言われる所以(ゆえん)
橋本恒夫(53)=福井県大野市、農業

「会社辞めて農業やってもいい?」。2010年、妻に相談した。造園業の経験から土壌や肥料の知識があった。前年に結婚した妻は二つ返事で「そうしましょう」。少し驚いた。当初の経営面積は1.2㌶。有機肥料で野菜を栽培したが売れず、地元ブランドの「上庄さといも」に集中した。新規就農者の認定と6次産業化の補助金を得た。倉庫を食品加工場に改装。20代の時に調理師免許を得ていたのが役立った。13年に4.7㌶に拡大。ふるさと納税の返礼品に登録し、15、16年には大野市で一番の里芋出荷個数になった。学生のころから天体観測が趣味。地域で星空解説を行い、解説員養成などのリーダーを担う。市も「星のまちおおの」を展開しており、自分も「星と里芋で大野の二刀流」と紹介された
非農家出身の私が酪農歴10年目に感じたこと
宮村悠希(26)=滋賀県甲賀市、牧場従業員

酪農の世界に飛び込んで丸10年だ。北海道の酪農学園大学に進学。乳牛研究会では、家業が酪農の学生や一般高校出身者などで意見の食い違いを生んだが、基礎知識の共有が全体の技術向上につながると確信し「座学タイム」を提案。「知識は人と人、人と牛をつなぐ懸け橋」という学びをもたらした。今の牧場でも、新入社員には必ずこの教訓を伝えている。社長や先輩の長年のやり方との間にすれ違いもあったが小さな成功体験を重ねることで理解を得た。職場全体で、牛の健康管理や搾乳効率の向上という成果を共有した。今、力を入れているのはゲノム解析による牛群の改良だ。知識をつなぐことが酪農の未来を考えるカギだと信じ、生産者、消費者の双方に情報を発信。「知識の懸け橋」を続ける。
私の柑橘(かんきつ)就農物語
矢野軟美(37)=愛媛県今治市、農業研修生

何もない地元に嫌気がさし東京の企業に就職した。出張先の福島で買ったモモに感動し、農産物の「旬」を意識した。取引先に、故郷愛媛のミカンを食べてほしいと思った。コロナ禍でふと、瀬戸内海の光景が頭に浮かんだ。「愛媛の島で農業をする。良いかも」。2022年にUターン。最初の就職先は関西から移住した夫婦の農園で、世話になったが、誰かが敷いてくれたレールではなく道は自分で決めたかった。JA農業研修生として2年間、柑橘の世話をしている。「女性一人は無理」と言われたが、指導員は特別扱いせず、ほかと同じように接してくれたのが救いだった。力もついた。来春の就農に向け5年間の収支計画を進めている。「何もない」と思っていた地元が「何でもできる場所」に変わった。
自由っていったい何だい?
市丸貴(54)=長崎県佐世保市、農業

高校卒業後、東京でバンド活動にあけくれた。やりたいことをやるのを「自由」と呼ぶのだとしても、やりたいことが分からないままUターンし、結婚。40歳になっていた。妻がプランターにバジルの種をまいた。すぐに芽を出した。直売所ではなかなかの売れ行きで、庭へ畑へと拡大した。育苗センターのアルバイトを汗だくでやり、農協から「農援隊やらないか?」と声がかる。複数の農家を順番に手伝う仕事で、感謝される充実感が夏の暑さを乗り越えさせてくれた。顔と名前も覚えてもらえた。イチゴ農家に研修生として受け入れられ、1年半後、師匠のおかげで農家デビュー。6年目に店舗化し、イチゴのサンドが想像を超える反響を呼んだ。夫婦で試行錯誤の日々。クリエーティビティーこそが、自由の源だ。
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